第八百十三夜

 

 郊外にある大型ショッピング・モールからの帰り道、
「あれ、公衆電話だ。まだあるものなんだな」
と運転席の夫が、顎を前に出した。その方向を見ればなるほど、横断歩道の階段の下に花を咲かせた夾竹桃の横に緑色の公衆電話を収めた硝子の箱が立っている。
 物心ついた頃には携帯電話があった私には、公衆電話の記憶はほとんどない。何処かで見掛けはしていたのだろうが、自分で利用する可能性などまるで考えたことがなく、それ故記憶に残らなかったのだろう、何処かにあったという記憶すらない。
「硝子の箱は無いけれど、ピンクの公衆電話なら学校にあるよ」
と言ったのは後部座席に座る娘で、言われてみれば正面玄関を入ってすぐ、受付窓口兼事務員さんの仕事場になっているらしい部屋の窓口の脇に、そんなものがあったような気もする。
「公衆電話には嫌な思い出があってなぁ」
と運転席から聞こえて表情を見ると、言葉の割に口の端が上がっていて、思い出話を語りたがっているようだ。
「何かあったの?」
と水を向けると、
「パパが小学生の時にな」
と嬉しそうに話し始める。
 小学校中学年の頃、今振り返ると徒歩圏内なのだが、当時の足では少し遠いところにある書道教室へ通っていたという。すぐ隣が酒屋さんで、タバコを売る小窓の横にピンクの公衆電話が置いてあり、帰り際には家に電話を掛けてから帰ることになっていた。ある日、いつものように電話を掛けようと自転車を店の前に止めると、店の入口もタバコの小窓もシャッタが降りている。毎週水曜日だったか、それまで書道教室帰りに店の閉まっていたことはない。今ならシャッタに貼り紙でもないかと探すだろうが、当時はそういう発想自体がなく、店の閉じていた理由はわからない。ともかく電話を掛けなければと十円玉を手に背伸びをして受話器に手を伸ばすと、ちょうどその瞬間に目の前の電話が鳴って、勢いそのまま受話器を持ち上げ、耳に当ててしまった。
「そうしたらおばあさんみたいな声で、はっきりとは聞き取れなかったんだけど、『ナントカちゃんかい?元気にしてたかい?』って聞いてくるんだ」。
当時は公衆電話に向けて電話を掛けられることも知らず、ただ心霊現象だと思って怖くなり、電話を掛けぬまま自転車を飛ばし家に帰ったが、
「今思えば誰かが誰かに、必死の思いで電話を掛けていたのかなと思うと……」
そこで夫は続ける言葉を見失い、寂しそうな目で力なく笑った。
 そんな夢を見た。

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