第八百二十九夜

 

 学校から帰って玄関の扉を引くと、予想に反して鍵が掛かっていて小さくつんのめった。のめりながら朝の母の言葉を聞き流していたのを思い出す。夕方に用事があって出掛けるるから、塾へ行く前に冷蔵庫のおやつを食べるようにと言っていた気がするが、ほとんど聞き流していたので詳細は覚えていない。
 ランドセルのポケットからあまり使わない鍵を取り出して錠を外して玄関に入ると空気が硬い。移動教室なんかでたまに味わう、暫く空気の動いていない空間に特有の雰囲気だ。
 部屋にランドセルを置いて上着を脱ぎ、洗面所で手を洗って冷蔵庫へ向かう。皿に載ったミルフィーユにラップが掛けられ、メッセージの書かれたキャラクタ物の付箋が貼ってある。
 それを持って食卓に置き、紅茶でも淹れようかと瞬間湯沸かし器に水を汲む。湯の沸くまでの手持ち無沙汰に居間を眺めると、ソファに母の膝掛けが置いてあるのが目に入った。なぜそんなものが気になったのか自分でもわからなかったが、よく目を凝らしてみるとなにやら小さく膨らんでいるように見える。単に置いたときにヨレ他というよりは、ちょうど小さなヌイグルミでも下に隠してあるような具合だ。
 何が置かれているのか、それとも単にそう見えるだけなのかを確かめようと思ったところで湯が湧いたのを知らせる音がして振り返る。カップとティ・バッグを用意して湯を注ぎ、ティ・バッグの紐を小刻みに揺らしながら膝掛けに目を戻すと、先程まで膨らんでいたはずの膝掛けがペタリと平坦になっていた。
 そんな夢を見た。

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