第六百四十八夜

 

玄関の鍵を開けた後、念入りにコートを叩き、そっと脱いで畳んでから扉を開けた。極力、花粉を部屋に入れないための工夫である。

荷物の類いも玄関にまとめて置くスペースを作ってあり、後ろ手に鍵を掛けると靴を脱ぎ、そのまま服まで脱いで風呂場に入る。玄関のすぐ脇が水場の狭いワンルームだからこそできる芸当かもしれない。いや、同居人が居なければ何処に住んでいても無関係だろうか。

何はともあれ頭からシャワーを浴びて、髪に付いた花粉が舞い散るのを予防する。髪のためには芯まで水を吸うのを待って洗ったほうがいいと聞いたことがあるため、次は化粧を落とし、それから身体を洗う。

くしゃみが出る。何だかんだ、気を付けたところで多少の花粉は舞ってしまうものなのか、或いは頭からシャワーを浴びたところで水と共に流れてきた花粉が目や鼻腔の粘膜に触れてしまうのか、毎度大体このタイミングで花粉症の症状が出てしまうのだ。数十秒に一回のくしゃみと戦いながら体を洗い終えると、シャンプーを手で泡立てて髪を洗う。

盛大にくしゃみが出る。その反動で、頭の高さまで挙げていた右肘が、狭い浴室の背後の壁にぶつかる。と同時に電子音が反響し、
「呼び出しています」
と合成音声が喋る。給湯器のコントローラのボタンを押してしまったらしい。浴室で万一のことがあったとき、異状を知らせるために居間のコントローラと通話が出来る仕組みである。狭いワンルームに必要な機能とも思えないが、かといってわざわざこの機能のない製品を用意するほうが無駄なのだろう。

ピロピロと単純な電子音が繰り返され、どうやって止めるのか少々焦る。何しろ今まで一度も使ったことのない機能だ。放っておけば止まるのかもしれないが、緊急連絡用とすれば居間側のコントローラを操作するまで止まらない可能性も考えられる。

ひとまずもう一度ボタンを押してみようと、目の上の泡と水分を腕で拭って目を開け、後ろの壁を振り向いてボタンの位置を確認すると、
――ピッ
と短い電子音が鳴り、そのスピーカから小さくホワイト・ノイズが流れてくる。

居間と通話が繋がったのだろうか。誰も居るはずのない居間と?どうして?

気化熱で肩や背の熱が奪われるのを感じながら硬直していると、やがて通信が切れたのか、プツリと音を立てて通話が切れた。

そんな夢を見た。

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