第六百四十九夜

 

タクシーが旅館に着いたのは、ちょうど夕陽の赤々と眩しい頃合いだった。玄関から出迎えてくれた男性がトランクから荷物を下ろそうとする私を制してその仕事に当たり、玄関前で待機していた若女将に案内され中に入ると先ず、見事な巨木で設えられた上がり框に圧倒されて思わず声が出る。何十年だか前に大きな台風で折れた地元の神社の木を買い取って改装したもので、やはり評判が好いそうだ。

初めての日本旅館に興奮する息子を窘めながらチェックインの手続きを済ませると、続いてやってきた客の出迎えにと若女将が頭を下げ、代わりにやってきた中年の仲居が、愛想よくトランクを手に取って部屋へと案内をしてくれる。廊下を歩きながら、
「親子お二人でご旅行ですか?」
と尋ねる彼女に、
「お母さんはね、実家に帰ってるの」
とお喋りの癖に言葉足らずな息子の台詞に、
「年の離れた二人目が出来まして。こいつがやんちゃで、家では休まらないものですから」
と慌てて補足すると、あらそれはおめでとうございますと仲居が人好きのする笑顔で祝ってくれる。

部屋に着くと彼女は食事やら布団敷き、大浴場等の案内を手際よく済ませ、
「その他、細かなことはそちらのご案内にございますが、ご面倒でしたらいつでも内線でフロントに尋ね下さい」
と頭を下げて部屋を去ろうとする。
「あの、あれは?」
とその頭の上がる前に、テレビ台を指差しながら尋ねる。指の先には小規模な商店で見るような手書きのポップに、
――ビデオ・DVD等、無料貸出いたします!
とある。落ち着いた室内に明らかに異質で、入って直ぐから気になっていたのだ。

仲居は愛想よく微笑んで、先代の旦那さんが非常な映画好きで、客に貸し出すためといってビデオ・テープの時代から沢山のカセットやディスクを収集していたのだと説明する。そのコレクションを廃棄するのも勿体無いと、未だに貸し出しサービスを続けているそうだ。

今なら、ネットで古い映画を観られるサービスがあり、この宿でも契約しているから客なら好きなものを見られる。そこでコレクションを廃棄しようと女将と若女将とで話し合っていると、
「女将の夢枕に先代が立って、頼むから捨てないでくれって泣き付かれたんですって。生前から奥様には頭の上がらないかたでしたから」
と、仲居は手書きのポップに目を遣って目を細めた。

そんな夢を見た。

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