第六百四十七夜

 

私の務める小さな会社では、毎年十月の初旬に社員旅行がある。毎年三月の半ばにある繁忙期を乗り越えると社長が誰かしらを責任者に任命し、三月中に二泊三日の計画を立てさせる。今年の責任者は三年前に入社したばかりの社員で、初めてのことだから勝手がわからぬから手伝ってくれという。

旅行会社のツアー企画をあれこれ集めてああでもないこうでもないと唸る彼女に、まずは自分が行ってみたいと思うところとか、食べてみたいと思うものとかを考えてみるといいのではないかと助言すると、
「それなら、温泉とか行ってみたいんですけどね……」
と眉を八の字にする。
ならば責任者の権限でそうしてしまえばよかろうに、何をそんなにしょんぼりすることがあるのか。
「だって、温泉って言ったら、やっぱり洋風のホテルより和風の旅館がいいじゃないですか」
と同意を求められる。まあそこは個人の好みの問題で、ホテルにするならそれはそれで構わないのではないかと返すと、
「いえ、私は旅館がいいんですけれど、旅館がダメなんです」
と頓珍漢なことを言う。

説明を求める私への返答は、
「私、襖で仕切られた押し入れがあるところには居られないんです。だから和室には住めないし泊まれなくて」
というものだった。
「小学生の頃に宿泊学習があって、山の中のお寺の宿坊に泊まったんですけど……」
その晩、うなされて目を覚ますと、布団を仕舞ってあった押し入れの中から痩せこけた老爺が黒く落ち窪んだ目でこちらを見詰めているのと目が合って、恐怖に失神してしまった。翌朝目覚めると押し入れの襖は閉じていて、既に目覚めて着替えを始めていた同室の友人達に聞いても、布団を敷いた後に閉めた記憶がある、それからは開けてもいないし起きたときにも閉じたままだったと言う。

以来、襖で仕切られた押し入れのある部屋で寝ると必ず夜中に目を覚ましてその老爺が現れる。お祓いに行っても病院に行っても効果は無く、
「両親にわざわざ引っ越しまでしてもらって、祖父母の家にも帰省できないんです」。
彼女は真面目な顔をしてそう告白するのだった。

そんな夢を見た。

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