第八百四十四夜
内見の後始末を終えて報告書を書き上げた部下が、
「例の部屋、いい加減お祓いとかして貰ったらどうですかね。大家さんを説得して」
と、普段より一段階低い声で提案の態をとった要求をしてきた。その声色と言葉選びとに、極力事務的な態度を崩さぬよう配慮する理性と、それでもなお透けて見えるほどうんざりしている心情とが透けて見える。
「今日も行ったの?どうだった?」
と努めて軽い調子で尋ねると、どうもこうもない、ここ六ヶ月ずっと変わらず、
「汚水の匂いも、風呂場の水滴も相変わらずでしたよ。朝一番で換気と拭き掃除をしましたけど、内見までの一時間半でほとんど元通りでした」
と、異臭を思い出したのか彼女の表情が歪む。
その物件は線路沿いにある築三年の単身者向けアパートの一室だ。アパート全体としては陽当りもよく内装もまだまだ綺麗、駅からも近く騒音を気にしない人からは人気の物件なのだが、その一室だけは半年前に空き部屋になって以降、誰一人として入居者がいない。
理由は内見さえすれば一目瞭然、とても住む気に成れない代物なのだ。
まず、部屋に汚水の匂いが充満している。水が落ちていればある程度は仕方のないことなのだが、あまりの酷さに対策を重ねても一向に解決しない。すべての排水管を徹底的に洗浄し、内見前にパイプに水を溜めて臭気の上がらないようにして換気をしても、内見までの僅かな時間で臭気が充満する。
もう一つ、これは風呂場だけなのだが、湿気が異常で常に床や壁に水滴が付いている。酷いときには床に水溜りができるほどだ。上水道はとっくに止まっていて、蛇口を捻ろうとも水は出てこない。下水管からの蒸気だけでそこまでの水量になるとは思えない。何より、こちらも拭き取ってほんの一時間で元通りになるのだから気味が悪い。もちろん何か科学的な説明が付くのだろうが、だからといってそんな湿気て臭い部屋に誰が住もうと思うものか。
「お祓いと言ってもなぁ」
と頭を掻く。築三年のアパートで、これまで住んだ住人は半年前に契約の切れて出て行った一人きり、その部屋で何か事件があったわけでもない。
「建物とか部屋とかじゃなくて、土地そのものがどうのとか、そんな映画があったじゃないですか」
と部下は言うが、
「建築前のお祓いは当然しているし、何よりあの建物の中であの一部屋だけの異常だからなぁ」
と腕を組むと、彼女は眉根を寄せて溜息を吐くのだった。
そんな夢を見た。
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