第八百四十三夜

 
 まだ水気の抜けきらないまま薄手の上着を羽織り、玄関を出て自転車に跨って夜道を走る。風呂上がりに飲む缶珈琲を切らしていたのに気付いたのはバスタオルで身体を拭いているときだった。
 まだ一月とはいえ流石に南国、夜風も身を震わせるほどには冷たくない。社が新年度から事業拠点を作る。それで候補となっている大きな都市と都市との合間の畑の中の空き家を借りて、こちらでの仕事を任されているのだ。
 二分ほど走ると畑の中の舗装路にぽつんと拓けた駐車場があり、四台の自動販売機が置かれている。一台は煙草、残りは飲料で、そのうちの一台は酒だ。誰もいない駐車場に着いて自転車を停めてその前に立つと、LEDの街灯と自販機の灯りだけが照らす狭い範囲に自転車と自分の影が判然と伸びる。
 押し並べて随分と値段の上がった中、缶珈琲だけは辛うじて旧来の値段を維持している。とはいえ量販店で箱買いをすれば単価は半分、もう半分は温度に払うものと思いながら手に伝わる熱を味わいながらプルタブを引き、煙草に火を付ける。薄曇りの空に輝く星を眺めながら、煙とともに缶珈琲特有の甘ったるい苦みと香りをしばし楽しむ。
 尻のポケットに入れた携帯灰皿へ吸い殻を仕舞おうとして、視界の隅に影が動いたような気がして、足元を見る。と、自分のすぐ脇に二足の赤茶けたブーツの足が並んでいる。
 まだ四分の一ほど残っていた缶珈琲を自販機の脇のゴミ箱に投げ込み自転車に跨って、振り向くことなく家へとペダルを漕いだ。
 そんな夢を見た。

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