第二百九十九夜
こんなに小中学時代の同学年の皆が集まったのは何年ぶりだろう。互いにちらちらと顔を見合い、当然目が合うのだがその度に、
「今は忙しいからまた落ち着いたらね」
というようなアイ・コンタクトをして各自の作業に戻るということを繰り返していた。
降り続く雨に河の氾濫が予想されるからと避難指示が出て、最寄りの避難所が数年前まで通った小学校の体育館だった。
小学校や役場の職員のうち、男性陣の殆どは外の仕事に駆り出され、体育館に残っているのは女子供ばかりだ。土嚢の準備や崖崩れで寸断された道路の復旧に男手がいくらあっても足りないようで、中高生でも体力に自身のある者は手伝いを申し出て行ったからだ。
もちろん女手が足りているわけでもなく、中学生は小さな子供たちの面倒を見、高校生は職員から説明を受け、それぞれ自分なりに仕事を担当していた。
中学で同学年だった友人達の三分の一弱を見かけたが、ここに居ない皆はきっと別の小学校か中学校が最寄りなのだろうか。逃げ遅れているわけではないと思いたい。
非常食を運んだり、濡れた衣服を暖房の掛かる部屋で乾かしたり、休憩で戻ってきた男性陣に熱い茶と軽食を用意したりと、仕事はいくらでもあった。
それでも消灯の時間を迎えると人心地付いた。雨雲の状態や河川の氾濫情報はどうなっているのか気になって、自分の荷物からスマート・フォンを取り出し、急に催して灯の付けられた校舎一階の廊下を目指して渡り廊下へ出る。
雨脚は随分と弱まったようだが、それでも渡り廊下を覆うトタン屋根は絶え間なく雨音を立て、風に煽られた雨粒が灯を反射して闇の中に白く光っている。
左半身を大いに濡らしながら校舎に入り、廊下の窓を未だ強く叩く雨音を聞きながらスマートフォンを起動するとあちこちから無事の報告やらこちらの心配やらのメッセージがあって、処理し切るのも大変そうだ。
ひとまず親族や仲の良い子達へ返事をしたところで、互いの安否がわかって気が緩んだのだろうか、もう半日は用を足していないのに気が付いて、急に催してくる。
自分が通っていた頃、一階には確か教職員用の便所があった筈と歩き出し、そして思い出した。
「一回の女子トイレは、生徒は使っちゃ駄目だからね。どうしても間に合わないなら仕方がないけど、それでも一番手前の個室だけは使っちゃ駄目。お化けが出るからね」。
一年生として入学して直ぐに担任から言われた言葉だ。その後も学年が変わる度に言われていた。当時は皆怖がって、誰もそこを使おうとはしなかった。高学年になると、教職員用のトイレを子供が汚く使わないようにするための脅しの言葉だったのだろうと理解するようになっていたが、それでも使わない習慣は卒業するまで続いた。
今日のような何十年に一度の災害でもない限り、もうこの学校へ来る機会も無いだろう。そう考えると、この絶好の機会を逃すのは勿体ないと思えてくる。
――是非、今晩使ってやろう。
そんな、あまり褒められたものではない決意をして、いざ教職員用の女子トイレへ向かう。
暗く口を開けた出入り口から手を壁に這わせて、電灯のスイッチを探し、押す。天井の蛍光灯が二、三度瞬き、低く唸るような音と共に薄桃色のタイルで覆われたトイレを照らす。入り口左手すぐに洗面台が一つ、すぐ脇に掃除用具入れの扉がこちらを向いている。そこから奥に向かって個室の扉が三つ横に並んでいる。スリッパを脱ぎ、入り口に三つ並んだサンダルをつっかけて、手前の扉を開ける。
――一番手前の個室だけは使っちゃ駄目。
担任の声が頭を過って背筋が少し寒くなるが、綺麗な様式の便器が一つ、どこのトイレでもそうであるように、じっとそこにあるだけだ。
安心してズボンを下ろし、振り返って便座に腰を下ろすと、閉じた扉のちょうど目の高さへ張り紙がしてあった。
――トイレはきれいに使いましょう。
なんとかそうと判別の出来る幼い文字とヒマワリらしき花にジョウロで水を遣る少女の絵が、クレヨンで描かれている。一年生か二年生かに描かせた美化ポスタだろうか。生徒用のトイレにならともかく、大人しか使わないこのトイレに必要なものではないだろうにと違和感を覚えながら用を足す。
腰を上げ、ズボンを引き上げて便座の蓋を下ろし水を流す。その蓋に煽られて起きた小さな風に、視界の隅で動くものがあった。先程のポスタの上下に貼られたセロファン・テープが黄色く劣化して、下辺を押さえるものが割れ、隙間から入った風に吹かれたのだ。
考えてみれば、自分の在学中にこんなものを描いた覚えはないし、自分達の使っていたトイレに生徒の描いたポスタが貼られていた記憶もない。セロファン・テープの劣化具合からしても、かなり古いものなのだろう。ひょっとすると、自分達が入学するより以前には、こういうものを描かせる習慣があったのかもしれない。
それが何故ここだけに残っているのか。生徒が汚したり破ったりするから、大人だけが丁寧に使うここにだけ残ったというのは、ありそうな理屈だ。だが、生徒にポスタを描かせなくなった理由はなんだろう。
水の流れる音を聞きながら、一瞬だけそんなことが頭を過ぎった。そしてそんな考えを一瞬で流し去ったのが、ちらちらと揺れるポスタの向こうを見てみたいという欲求だ。
小さく屈んでポスタの脇に顔を寄せ、ポスタの下辺の真ん中を右手で摘まむ。上のセロファン・テープに力をかけないよう、その下を左手で押さえ、ゆっくりと右手を持ち上げると、赤黒い小さな左手の手形が一つ滲み出ていた。
そんな夢を見た。
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