第三百夜

 

金曜の夜に夜行バスで東京へ来て、一日あちらこちらの庭園の写真を撮って回ると、冬至も近付いて黒々と澄んだ晩秋の空は月の見事な夜になっていた。

明日の夕方には再び高速バスに乗る予定だが、それまでの時間を有意義に過ごすために、カプセル・ホテルのような狭苦しいところは避けたい。枕が変わったからといって眠れぬような繊細な質ではないが、夜行バスの翌日くらいは羽根を伸ばして眠りたい。さりとて、贅沢なホテルというのも若い頃からの習いが身に染み付いていて却って落ち着かない。

結局、安いビジネス・ホテルにチェック・インして落ち着くことにした。

部屋に荷物を置き、ビールとツマミを買ってから汗を流し、バスローブ一丁になってペイ・チャンネルの洋画を流す。

イカの足でビールを飲み、体の冷えてきたところで荷物から手帳と観光ガイド・ブックを取り出してきて、明日の予定を確認しながらメモを取る。

不意に、ドンと壁が鳴って手帳に引く線が歪み、舌打ちが出る。何事かと音のした辺りに顔を向けると、再び、拳か何かもう少し重いもので壁を叩くような音がして、小さなクローゼットの戸が揺れる。
映画以外に物音など立てていないから、苦情のつもりというわけではなかろう。念の為、リモート・コントローラの音量ボタンを二度押して、筆入れから修正テープを取り出す。

と、今度は二度、ドンドンと同じところで壁が鳴る。迷惑な客だと一瞬眉を吊り上げるが、嫌な予感とでもいうか、不愉快な靄のようなものが頭と心を包む。

音はクローゼットの裏の壁からしている。その反対側は、狭い廊下を挟んでユニット・バスになっている。ホテルの間取りが同じように作られているのなら、隣の客はバスタブから壁を殴っていることになるのではないか。となると、壁への殴打は騒音への苦情などではなく、何らかの持病や怪我で身動きの取れなくなって、助けを求めているのではないか。

そういう理屈が数瞬で頭を駆け巡り、フロントへ内線を掛ける。思い違いかもしれないがと前置きをしつつ異状を知らせる合間にも、また壁が音を立てる。

そういうわけだからと受話器を置いても、何となく落ち着かない。ビールを手にし、従業員なりが来たときに酔っていても失礼かと思い留まってテーブルに戻す。観光ガイドを眺めてみても、いつまた音がするかと、ついクローゼットの辺りが気になる。

そんな風にそわそわしながら過ごしていると、部屋のインター・フォンが鳴り、バスローブ姿のままで良いものかと一瞬迷ったものの、そのまま出る。と、制服姿の従業員と、スーツを着た恰幅の良い中年男性が深々と頭を下げて私を出迎える。

何事かと問うと、支配人を名乗る男性が丁寧な口調で説明を始める。

配管に異常があって、他の階で便所の水を流すと、隣の部屋との間で配管が大きな音を立てる。修理が済むまでこの二部屋は客を入れない事になっていた。連絡が不行き届きで私を案内してしまった。不快な思いをさせて申し訳ない。今晩の料金は不要なので、別の部屋に移ってほしい。

そういうことかと納得し、確かに音は大きいから部屋は移りたいが、無料というのは気が咎める。
「同じクラスの部屋なら料金は払う。大した荷物のあるでもないから」
と言っても、頑なに、
「とんでもない。こちらのミスで不快な思いをさせた以上は、埋め合わせをさせていただきたい」
と言って聞かない。

結局簡単に荷物をまとめ、一つ上の階の部屋へ移ると、部屋を去り際、更にプリペイド・カードの類を押し付けてくる。何度も頭を下げる姿にこちらも申し訳ないような同情するような気分でそれらを受け取り、
「次の旅行でも宜しくお願いします」
と世辞を言って別れる。

後ろ手に扉を閉めながら、ただの騒音でここまでの対応をするものかと思うと、何か裏にあるのではないかと勘ぐりたくなって、抽斗の裏や壁に掛けられた写真の裏でも覗いてみればよかったかと、口惜しくなった。

そんな夢を見た。