第三百一夜
名刺を交換し、席を勧められて腰を下ろすと、
「ひょっとして、あの○○さんの妹さんですか」
と、取引相手の男性から驚きの声が上がった。「○○」は私の姓であり、この地域に限らず珍しいものだから、同姓なら血縁だろうと推測するのは理に適ってはいる。
だから、初めて合う人には稀に同じことを言われる。物心付いてから、社会人になった今でもずっと、年に一人か二人、これまで接点の無かった人に自己紹介をすると、
「お兄さんから聞いていますよ」
と言って笑い、何故か気に入られる。
良くしてくれるのにお礼を言えば、
「お兄さんには世話になったから」
とか、
「こちらこそ、お兄さんに良くしてもらったから」
とか、兎に角恩返しをという雰囲気で、迷惑そうな顔、嫌な顔をされたことは一度もない。
しかし、一つだけ問題がある。私の兄弟姉妹といえば妹が一人いるばかりで、兄どころか男兄弟自体がいないのだ。
子供の頃は何かの勘違いかと思っていたが、中学生になって流石に気味が悪くなった。何かオカルトめいたことでも関わっているのではと、流産なり堕胎なりの経験を両親に訊ねても、そんな事実は無いとのことで、流産した兄が私を守ってくれているのではという中学生らしい妄想も否定された。
が、現象だけはその後も続いている。実のところ今の仕事も、その存在しない兄のコネクションで採用されたものだったらしく、入社式後の歓迎会で上司から、
「人事から聞く話だとお兄さんは優秀な人だそうだから、君にも期待しているよ」
と、にこやかに告げられたのを覚えている。
にこやかに資料を手にする取引相手の男性へ、私は兄の名前が出たときの定形として、
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
と頭を下げる。
兄などいないと否定するのも、兄について何か訊ねて情報を確定させるようなことも、自ら妹と認めるような嘘をつくのも、何か良くない結果になりそうな、そんな予感がするからだ。
そんな夢を見た。
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