第八百二十夜

 
 夕食の入ったエコ・バッグを提げ、扉の前でキィ・ホルダを取り出していると、隣の部屋の扉が開いた。音に反応して振り返ると出てきた隣の住人は私に気付いて少々目を見開き、続いて会釈して挨拶を交わす。
「今、お帰りですか?」
「え、ああ、まあ。そちらはこれからお出掛け?」
「ええ、ちょっとやらかしまして」
と、玄関から一抱えもあるビニル袋を引っ張り出す。
「珈琲でいっぱいのサーバをひっくり返してしまって。ほら、薬局の横に大きなコイン・ランドリィがあるじゃないですか。あそこまで」
と、口をちらりと開けて真っ白な絨毯を見せる。
「へぇ、結構高そうですね」
と水を向けると謙遜するがまんざらでもなさそうだ。
 彼とは特に親しいわけではないが、ある時互いに自転車を抱えてエレベータで鉢合わせたことがあり、同好の士として多少言葉を交わすようになっていた。
 大荷物を抱える彼を見送って部屋に入ろうと扉を開けると、
「そうそう、ちょっと気になったんですけど」
と背後から呼び止められ、
「今日の昼過ぎだったかな。何だか女がボソボソ独り言でも呟いてるような声がずっと続いてたんですけど、動画を流しっぱなしで家を出たりしました?」
「あら、それはご迷惑を。気を付けます」
「いえ、大した音ではないし気分を害したとかではなくて」。
 そう言うと彼は到着したエレベータに乗り込み、部屋に戻った私は食卓にエコ・バッグを置いてPCを眺める。食事を買いに出るまでテレワークで用いていたPCデスクからはフックが伸び、設置以来ジャックを抜いたことのないヘッドフォンが掛かっている。
 昼過ぎといえばそれを耳に付けたまま作業を続けていたのだが、彼が聞いた女の声は勘違いか幻聴の類だったのか、或いはヘッドフォンで私には聞こえなかっただけなのか。
 そんな夢を見た。

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