第八百十九夜

 

 秋もいよいよ深まって、家を出ると顔に当たる風が冷たかった。そろそろ本格的に冬物のお世話になる頃か、もう暫く秋物に活躍してもらわねば元が取れぬかなどと考えながらいつもの電車に乗ると、満員電車は不愉快なほど蒸し暑く、まだ秋物の上着の下で汗を掻く。上手いこと調整できるだろうかとクローゼットや箪笥の中身を頭の中であれこれ組み合わせているうちに事務所へ着く。
 中へ入ると後輩が厚手のコート掛けに吊るしたコートのポケットに手を入れて中を探っているらしい後ろ姿を見付け、その背中に朝の挨拶を投げ掛ける。
 振り向いて挨拶を返す彼に、冬本番のようなコートを着て暑くはなかったかと尋ねると、元来寒がりなのでと言ってスーツの似合わぬ骨と皮ばかりの胸を張る。
「それよりも聞いて下さいよ」
と、デスクに荷物を置いて仕事の準備を始める私の背中に、彼は普段より一段興奮気味の声で語り始める。
 盆休みで帰省してそこからこちらへ戻ってきた日のこと、昼過ぎに帰宅して荷物を簡単に片付けた。一区切り付いたところで簡単な昼食を摂ろうと冷蔵庫を開けて、食料や飲料は帰省前に片付けてしまっていたことを思い出した。今日のうちにある程度買い込んでおこうと家を出て、そういえば財布には幾ら入っているかとズボンのポケットをまさぐるが、キィ・ケースとスマート・フォン、無線イヤフォンのケースしか入っていない。
 慌てて部屋に戻り、鞄から何からひっくり返すが見当たらない。夜行バスへ連絡してもそうした忘れ物や落とし物は届いていないと言われる。中にはいっていたのは少額の現金と諸々のポイント・カードくらいだろうか。クレジット・カードや運転免許証などは手帳型のスマホ・ケースに入れていたため被害は少ない。そう思ってすっぱりと諦めることにしたという。
 ところが今朝、春以来の気温の低さにクローゼットに掛けてあったコートを取り出し、クリーニング屋で掛けてもらった黒い埃除けを外すと、その胸の辺りに妙な厚みがある。まさかと思って内ポケットへ手を伸ばすと、盆に失くした財布がきちんと収められていた。クリーニング屋から持ち帰って以来、カバーを外したことなど一度もない。帰省から戻った真夏にわざわざこんなところに財布を仕舞う道理もない。
 全く不思議なこともあるものだという彼がやけに嬉しそうで、財布には少額しか入っていなかった割には喜んでいるようだがと問うと、彼は、
「色々とあった財布なんで」
と何故か顔を赤くした。
 そんな夢を見た。

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