第八百六十四夜
終業間際、部下の顔色が悪いのを心配して晩飯に誘うとどうしても外せぬ用事があってそのまま帰ると断られた。
それでも何か役に立てばと早足で歩く彼の傍らを最寄りの駅まで歩くことにする。特に事情を説明するよう求めたわけでもないが、無言で付いてくる私を鬱陶しく思ったのか、
「駅までだとちょっと早口になりますが」
と前置きして何事か話し始める。
今日は大学のサークルの先輩に会いに行くと言う。
「先輩、ちょっと変わってて、バイトする時間を減らしたいからって所謂『事故物件』に住んでたんです」
築何十年だか知れぬボロアパートで、ずっと学生専用に貸し出されてきたという。玄関を入ると共用の便所と炊事場があり、風呂がないのも建築当時はあちらこちらに銭湯があって当たり前だったらしい。
先輩の部屋は二階で、西向きの窓の正面には背の高い桜の木が太い枝を張り、春先の眺めだけはどんな高級アパートにも負けないものだと自慢して、サークル仲間と部屋で花見酒を楽しんだこともあったそうだ。
その先輩が冬の終わりごろから、
「桜の枝に女が首を吊って、こちらを指差しながら笑っている」
とメッセージアプリに連絡をしてきたことがあった。もう五年以上そこに住んでいて一度も『事故物件』らしい現象に出会ったことがなかった先輩はむしろそれが嬉しかったらしく、それを見に春になったらまた部屋へ来いと誘ってきた。
「その後、しばらくして先輩から『指を差していた』理由がわかったと連絡があって……」
何と、彼に執着したサークルの後輩が、ボロアパートのセキュリティの甘さに付け込んで屋根裏へ半ば住み着いて彼を監視していたのだそうだ。
桜の木の幽霊の指の先にいたのは自分ではなくその女で、幽霊は自分に警告をしてくれていたのだろうと、先輩は解釈したのだという。
「じゃあ、今日はその先輩のところで花見酒?」
と尋ねると、
「いえ、通夜なんです。昨日の明け方にその桜の木で……」
と彼は言葉を濁し、いつもと反対の列車に乗り込んだ。
そんな夢を見た。
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