第六十八夜

運動不足を解消するのに、少々高い自転車を買った。道具を用意したのはいいのだが、元来が運動不足になるような出不精だ。単に運動のため出掛けるのが億劫なのは言わずもがなである。そこで一念発起して、休日には手頃な観光地を見繕い簡単な計画を立る、翌週の休日にはそこへ走るということを始めたところ、思いのほか長続きしている。

そんな調子で今日は小さな山へ来た。山といっても標高は五百メートルにも満たず、山頂付近まで舗装路用の自転車で登ることができ、その先で石段を登れば小さな神社があるそうだ。

蝉の合唱を聞きながら緩やかな上り坂を走る。片側一車線ながら綺麗に舗装された道路には、人も車も見掛けない。登りは山側の日陰を走れているが、帰りは谷側を走らねばならない。雨の降らぬ程度に天気が崩れてはくれぬかと思いながらペダルを漕ぐ。

カーブを曲がった先に、一台の自転車が駐められている。前輪の上に籠が付いていて、黒字に黄の稲妻模様が入っていることとサドルの高さとから、小学校の高学年くらいの少年のものだろうか。多少くたびれてはいるが、長い間放置されているといった様子でもない。何か良くないことに子供が巻き込まれたのではないかと余計な想像をして、その脇で自転車を降り、山の林か谷の崖かに、異状がないかと首を巡らす。

谷を見下ろしていると山側の笹薮がガサガサと揺れ振り返る。少年が青地に黄色の線の入った運動靴の片方を籠に入れ、錠を外そうと後輪の辺りを弄る。

特に事故というわけでもなさそうだと安心しながら、彼が籠に入れた靴が気になって、その足を見る。白地に紺色の線の運動靴を両足ともに履いている。

気付けば車線越しに「おーい」と呼びかけていた。自転車で遠出をするようになってから、旅の恥は掻き捨てとはよく言ったもので、知らぬ人に平気で話しかける癖がついていたからだ。少年はこちらを見て手を振り、
「何か、お困りですか?」
と随分丁寧に返事をする。
「何というのではないのだけれど、こんな山道の途中で子供の自転車が駐めてあったから、心配してしまって」
「すみません、そうですね。この上に住んでいるのは、うちの他に十件もありませんから」
「いや、こちらこそ申し訳ない。ところで……」。

少年がハキハキと気持ちの好い受け答えをするので、
「昆虫採集の道具を持っているようにも見えないけれど、こんなところで何を?」
と余計なことを尋ねてみると、
「これを取りに来たんです」
と籠の中の青い靴を取り出してはにかむ。

事情の分からぬのを表情から察したか、彼は一から丁寧に、説明してくれた。

夏休みの初めにこの茂みにある大クヌギを目印にして昆虫採集をした。陽の上る前の薄明かりの中、胸に下げた虫籠にクワガタを採っていると、太い枯れ枝でも踏んだか足を滑らせ気を失った。次に目が覚めたのは実家の濡れ縁で、籠の虫は居なくなっていた。身を起こすと左のスネに痛みが走って声が出た。骨折していたのだが、そこには木の枝と縄とで器用に添え木がしてある。声に驚いた家人が彼を見付け、一頻り彼を叱り、無事を喜び、添え木に感心し、稲藁で綯った縄を訝しんではワイワイと話し合った。結果、
「生き物を捕まえるのはやめておけ、山の神様が助けてくれたのだ。縄は神様の履き物をほどいて使ってくださったんだろう。履き物が無くては難儀だろうから、お前の小遣いで新しい靴を買って、お礼を言ってこい」
ということになった。
「それで、昨日この靴をクヌギのところへ持っていったんです」
「それで持って帰るの?片方だけ?」
と問うと、
「祖父が言うには、この山の神様は一本足なんだそうです。ただ……」
左右どちらかまでは誰も知らず、両方持っていって余ったものはゴミにならないように回収することにした、
「本当に片方だけ無くなっているとは思いませんでした。カラスや野良猫の仕業かもしれませんけれど……」
と彼は満足そうにイガグリ頭を掻いた。

そんな夢を見た。

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