第八百五十夜

 
 居間の炬燵に教科書を広げて期末試験の勉強をしていると、玄関が開く音がした。気配から察するに、どうやら小一時間前に出掛けた父親が帰ってきたらしい。ゴルフの打ちっ放しへ行けば夕方まで帰らないのが常だったから、暖房費の節約も兼ねて居間に陣取ったのだが、アテが外れた。
 居間の扉の開く気配に振り向かぬまま、
「きりの良いところまで行ったら片付けて部屋に戻るから」
と声を掛けると、
「ああ、いや、いい」
と曖昧な返事をして洗面所に戻る。手を洗い忘れたようだ。水音が終わって戻ってくると、昼に淹れた残りの珈琲をマグに取り、一口啜ってため息を吐く。
 食卓の脇に立ったまま、
「母さんは?」
と尋ねるので、妹と買い物に出かけたと答えると、
「あのな、内緒なんだけど」
と言ってたっぷり十秒沈黙してから、
「父さんな、近いうちに死ぬかもしれん」
と呟く。藪から棒とはこのこと、何処か悪くて医者へでも行ったのかと尋ねながら振り向くが、どう見ても無理に若作りしたゴルフ・ウェアの中年男性といった出で立ちで、医者に行くような格好ではない。
 こちらの表情に困惑を見て取ったか、父が事情を説明するには、行き付けの打ちっ放しには、ホール・イン・ワンをすると死ぬという噂があるという。実際に父の顔見知りが一件、直接の顔見知りではないが常連の顔見知りが一件は、本当に亡くなっていることが確認できている。スタッフの話では、少なくとも他に六人ほどは、そこでホール・イン・ワンを出して以来姿を見せなくなった客がいるのだという。
 噂は知っていたからその付近へは飛ばさぬよう意識していたのだが、ミス・ショットでうっかり入ってしまったのだと暗い顔をする父に、そんな話を気にする側面があったことのほうが驚きだった。
 そんな夢を見た。

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