第八百四十八夜
仕事を終えたベテランのドライバが、何やら難しい顔をして事務所へ戻ってきた。お疲れ様と声を掛けると彼は生返事を返して棚から日誌を取り出し、いつものように応接テーブルで業務報告を書き始める。珈琲を入れて持って行くと、
「そっちも残業大変だろうに、気を遣わなくていいよ」
と言いながら受け取って口を付ける。事務机へ戻ろうと踵を返した私を、
「あのさ、ちょっと相談なんだけど」
と呼び止めた彼は、顔の脇に挙げた手を猫の置物のように招いて、
「あの車、お祓いしてくれねぇかな」
と囁く。
お祓いと言われて思い出す。今日彼の乗ったのは、十日振りに戻ってきた事故車両だ。事故と言っても事故当時運転席に座っていた彼に何の落ち度もない完全なもらい事故で、破損の程度も小さく、会社としての損失は修理期間中にその車に仕事をさせられないことだけだった。
片側二車線の道路で右折のため先頭で信号待ちをしていると、右前方から青信号で、自家用車が交差点に侵入した。そこへ対向車線を恐ろしい速度で進んできた信号無視のスポーツカーが突っ込み、跳ね飛ばされた自家用車が彼のトラックへぶつかったのだ。「先頭で停まってたのがたまたま俺で良かったよ。自家用車だったら死人が増えてた」とは、連絡を受けて病院へ行った私に、怪我一つない彼が溜め息混じりに言った軽口だ。
警察によれば、信号無視の男は死亡、直進車は子供を習い事へ送りに行く途中の親子連れで、やはりどちらも亡くなったのだという。ドライブ・レコーダの映像から責任の所在は明らかで、スポーツカーを所有している会社から、損害と必要な費用は全て補償される事になったのだ。
「昔、事故歴のある車に乗ったときはこんなことなかったんだがな」
と前置きして、
「今日あの車で走ってたらよ、『今日は進級試験でしょ?頑張ってね』とか『次は背泳ぎ?怖いからわざと落ちちゃおうかな』とか、親子の会話が聞こえる気がするんだよ」
と言い、
「な、俺の気の所為だとは思うんだ、だから気休めに、社長に頼んでみてくれねぇかな」
と、彼は真剣な目で私を見上げた。
そんな夢を見た。
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