第七百七十一夜

 

 とある月末、今年度になって転属してきた同僚と二人で小さな事務所の一室で黙々と作業をこなしていると、不意に同僚が、
「ん?」
と小さく鼻から声を出した。彼女は私と違い、普段、作業中に独り言を呟くタイプではない。
 どうかしたのかと声を掛けると、彼女は作業の手を止めぬまま暫く沈黙し、
「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』って、読んだことありますか?」
と尋ねてくる。非常に頭が良く、口を開く前に話すべきことを論理立てて頭の中に構築するタイプであることは、この一月半でわかっていた。
「ああ、宮沢賢治だっけ?何だかアニメ映画になっていたりするのは知っているけれど、読んだことはないなぁ」
と答えると、既に著作権が切れていて青空文庫入りしていること、そのため動画投稿サイトに、それを朗読する動画の幾つかあることなどを説明してくれる。きっと、彼女に起きた何事かを理解するための前提条件なのだろう。
 それらのうち、声質の気に入っている男性の朗読しているものを、作業中に聞いているのだという。というよりはむしろ、その男性の朗読したもののうちの一つに『銀河鉄道の夜』が含まれているらしい。仕事中に聞き流すのに丁度よいと十数作品を再生リストに入れてループしながら聞いていると、だいたい一週間の勤務で一周聞き終わるのだという。
「それで今、変なことがあったんです」
と、彼女はモニタを見つめ、何やら手元にメモを取りながら、『銀河鉄道の夜』には原稿の欠落して話の繋がらない箇所があるのだと教えてくれた。結構な有名作品にも関わらず、原稿が完全でないなどとは、原作も映像作品もまるで触れたことのない私には驚きだ。
「だから、原稿の欠落しているところでは、前の文章を読んだ後、二秒くらい間を置いて『原稿なし』って言って、また続きを読み始めるんです」
「まあ、仕方がないよね」
「そのうちの一つが、『ところがいくら見ていても』って再開するんですけど、今そのナレーションが聞こえたとき、直前に『原稿なし』って言ってなかったんです。思い出してみると、普通に朗読をしていた気がして……」
と珍しく文を完成させずに言葉を切った彼女に、もう一度再生してみてはと提案すると、賢い彼女は当然のごとく既にそれを試しており、そのときには例のごとく『原稿なし』の声が聞こえたのだと、何処か不満げに口をドがらせた。
 そんな夢を見た。

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