第六百九十五夜

 

暦の上では秋ながらまだまだ猛暑日の続く早朝、まだ気温の上がらないうちに家を出た。それでもなお、駅に着いてホームへ上がる頃には額から汗が流れるから参ってしまう。

肩掛けの鞄を浮かせ、尻のポケットから手拭いを取り出して汗を拭いながら電車の到着を待つ列の後尾に並ぶ。

そのまま暫く、片手に手拭いで汗を、片手にスマート・フォンで朝のニュースを処理していると、
「すみません」
と背後から声を掛けられる。何事かと振り返ると、この時期この時間には久し振りに見るセーラー服姿の少女が、物怖じしない様子でこちらを見上げている。

部活動の朝練か、それともこの地域にしては少々早いが既に新学期が始まったのか。彼女の他に同じ制服姿も見掛けないので、恐らくは前者だろう。いずれにしてもこういう年頃の少女というのは、いい歳をしたオジサンとしてはできるだけ関わり合いになりたくない人種だ。

一度彼女から視線を外し周囲を見回し、声を掛けたのがこの少女であるらしいこと、少女が声を掛けた相手が私であるらしいことを確認し、
「何か?」
と短く尋ねた声は突然のことで掠れたものになってしまった。
「あの、それ……」
と彼女が言いかけたところへ電車が入ってきて、声が半ば遮られる。
朝の上り電車から降りる乗客は少なく、順番待ちの列がすぐに動き出す。それに遅れぬよう振り返り、
「ごめん、電車」
とだけ言って歩きだす。背後から再び、
「そのカバンの縫いぐるみ、可愛いですよね。私も好きなんです」
と彼女の声が掛かる。が、乗車案内のアナウンスで聞こえないふりをしてそのまま電車に乗り込み、そのまま奥の方へ身体をねじ込む。

未だ疫病は終息していないというのに報道が減ったためかすっかり混み合うようになった通勤電車が、今朝ばかりは有り難い。

縫いぐるみなど何処にも付いていない鞄を網棚に載せ、吊り革を掴んだ腕に顔を押し当てて寝るふりをする。

電車が動き出すのに合わせて薄目を開けて横手を盗み見ると、人の隙間から先程の少女が何か言いたそうにこちらをじっと見つめているのが見え、慌てて目を閉じた。

そんな夢を見た。

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