第八百三十五夜

 

 除夜の鐘の聞こえる店内で仕事をしていると、客に家族がやってきた。恥ずかしいからやめてくれと明るいうちに言い含めておいたのだが、きっと弟か父の提案だろう、母と三人揃ってやって来て、年越しそばを注文する。
 もちろん家族だからと特別に相手をしている暇はない。地方のファミリ・レストランのチェーン店のひとつではあるが、近隣の店舗の中では頭二つほど売上の良い人気店だと聞いている。これまた全国的に有名というわけではないけれど、古くからある神社の参道から伸びる道と国道へ続く幹線道路の交差点にあって、年越しの夜ばかりは特別に忙しいのだ。
 それでも十一時に近付くと、いよいよ二年参りに出掛けていくのだろう、空席が出始めて店にも多少余裕が出てきた。
「そういえば」
と同僚のおばちゃんがストーブの前で自分の肩を揉みながら、
「やっぱり除夜の鐘が効くのかね」
と厨房のスタッフに話し掛ける。
「あ、そうか。もう一年になるんですね」
と応じる彼に何の話かと尋ねると、胸の前で両手の甲を揺らして、
「ほら、これ。今日は全然見ないだろ?」
と言う。言われてみれば、スタッフ用の出入り口の戸がガタガタ音を立てることもなければ、トイレの個室の戸が人もいないのに閉じてしまっているとかいう日頃の怪現象が起きていない……ような気がする。
「うーん、忙しすぎて気付く暇がなかっただけじゃ?」。
そもそも除夜の鐘は生者の煩悩を払うものであって幽霊の類に効くものではなかろうにと首を傾げる私に、しかしおばちゃんは首を振る。
「なんとなく、去年そんな気がしてね。来年は確かめようって話をしていたのよ」
とおばちゃんが胸を張る後ろで厨房のスタッフは肩を窄めて中立を示して見せた。
 そんな夢を見た。

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