第六百九十八夜

 

秋の大会に向けた合宿から帰ってきた妹が、溜まりに溜まった夏休みの課題を手伝って欲しいとプリントと教科書とを持って部屋を訪ねてきた。と言ってもベッドと勉強机とでいっぱいになってしまう私の部屋ではどうにもならぬ。
「椅子を持ってそっちに行くから」
と妹を部屋に追い返し、学習机から引き抜いた椅子を抱えて妹の部屋へ移る。

暫く請われるがままに数学やら物理やらの基本的な理屈を説明していると、今日の彼女は妙にしおらしい。ちょうど一時間ほどで休憩を提案し、彼女の淹れたインスタントの珈琲を啜りながら、
「合宿先で変なものでも食べた?」
と冗談交じりに尋ねてみる。
「え、なんで?」
「なんか今日は随分と大人しいから」。
そう言うと彼女は手にしたチョコレート菓子を暫く見詰め、
「お姉ちゃん、笑わない?」
と尋ねて話し始める。

合宿先は隣県の山奥にある合宿所だったという。厳密には大学の施設の一つで、彼女の通う附属高校も利用することがあるのだそうだ。合宿の初日、昼過ぎに到着するなり夕方まで練習、夕食後に風呂へ入ると今度は器具を用いた基礎トレーニング。再びシャワーを浴びると時刻は十時に迫り、あれよあれよと就寝となった。

狭い部屋は二段ベッドが二つ並べられた四人一部屋で、二年が二人、一年が二人になるよう割り振られていた。幸い緑豊かな高地でもあり、空調設備も整えられていて、ベッドに身を投げ出すと硬く分厚いシーツがひんやりと心地好い。疲れ果てて重い体そのままに寝付かれるかと思ったが、どうも意識が冴えてしまって寝付かれない。

すっかり布団が温くなり、涼みがてら用を足しにでも部屋の外の便所へ行こうとベッドから身を起こすと、
「トイレ?だったら私も」
と上から先輩の小声が降ってきた。寝付かれないのは自分だけではなかったのだ。

梯子を伝って降りてきた先輩と一緒に廊下へ出ると白々と輝く灯りに目が眩む。
「こっち」
と小さく言って歩きだす先輩の後に付いてあるくと、向かう先の左手の扉の一つが勢いよく開き、同時に駄々をこねる幼児のような号泣が廊下に響く。

何事かと思う間もなく、顧問が泣き叫ぶ部員を羽交い締めのような格好で引き摺るように部屋から出てくる。その後から施設職員のおばさんが、
「大丈夫、大丈夫だからね」
と繰り返しながらついてくる。
先輩共々、しばし呆気にとられてそれを眺めていたが、すれ違いざまになにかあったのか、手伝うことはあるかと尋ねる。顧問は心配ない、部屋に戻って寝ろとだけ言ってそのまま階下へ続く階段の方へ暴れる部員を引っ張って行く。

おばさんもこちらを振り返り、本当に大丈夫だからねと言って顧問の後に続く。開き放しになっていた扉の部屋へ先輩が駆け寄って事情を聞くと、連れて行かれたのは一年生で、突然、
「部屋の外に変な気配がする。いっぱいある」
と言い出したかと思うと、大きな声を立てて泣き始めた。それ以外のことは何もわからないという。
「次の日には体調が悪くなったから合宿に参加できなくなったってだけ教えてもらったけど、その後、誰もその子と連絡が取れなくなって」
「へえ、何か怖いものでも見たのかね」。
そう返す私に、
「それがね、同室の先輩が言ってたんだけど、駆けつけた職員のおばちゃんが、『この部屋は出る部屋じゃないのに……』って呟いてたんだって」
と言うと、妹は両手で包むように持っていたマグに残った珈琲を飲み干した。

そんな夢を見た。

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