第三百五十五夜
梅雨らしく判然としない昼下がりの空の下、明日か明後日か晴れるまで待てと止めるのも聞かずに竿とクーラ・ボックスを持って飛び出していった息子が、日の傾いてザアザアと音を立てて降り出した雨の中、息を切らして帰ってきた。
「それみろ、雨に降られて釣りどころじゃなかったろう」
と、玄関までバス・タオルを持っていってやると、青いビニル製の合羽の中までびしょ濡れの息子が、顔も唇も真っ青にしてがたがた震えて立っている。忠告に耳を貸さずに失敗してバツが悪いのか、いつになくしおらしく黙っている。
合羽を着込んでおいて、一体どうしたらこんな濡れ鼠になれるのかと思いながら合羽を脱がせ、タオルで頭を拭いてやると、泥の臭いが鼻を突く。
「何だ、まさか池に落ちたのか?」
と問えば、突かれたように顔を跳ね上げて、
「まさか」
と首を何度も横に振る。
それはそうだろう。ここらの子の釣りに行く溜池は、土手の終わりからほとんど垂直に掘り込まれていて、うっかり落ちればそう簡単に抜け出せるものでない。だから周囲は厳重に柵がしてあるし、親もその中へは決して入るなと厳しく躾ける。管理用の出入り口としてコンクリートで固められた下り階段があり、腰の高さまでしか遮られずに水面近くまで寄れるようになっており、釣りがしたければその狭いスペースを仲良く使えということになっている。こんな天気で釣りに行くのもうちの馬鹿息子くらいだろうが、そこを他の子供に占拠されてもいないのに他所で釣りをするほどの馬鹿でもあるまい。
ではどうしてこんなに泥水を被ったかと問うと、
「でっかい鯉がいたんだ」
と両手を広げる。手を広げた長さは概ね身長と同じだというから、百三十センチメートルほどか。
「そりゃ、本当なら馬鹿でかい」
「本当だよ。ボコボコ泡が湧いたと思ったらそいつが顔を出してこっちを睨んで……」
と、両手を腰の横に揃えて掬い上げる仕草をして見せ、
「こんな風に水を掛けて来たんだ」
「そりゃ、こんな日まで釣りしやがってと怒られたか、早く帰れと心配してくれたか」。
タオルの清潔なところを探しながらなんとか足の裏までを拭き終わり、
「さっさと風呂入って来い。綺麗になるまで湯船に浸かるなよ」
と家に上げ、着替えを用意しに戻ろうとして、土間に放置されたクーラ・ボックスが目につく。
開けてみると泥臭い水が僅かに溜まっているだけで、魚もザリガニも見当たらない。玄関先で水を空け、ホースの水で洗いでから、息子の着替えを用意して脱衣所へ行き、
「結局ボウズだったか」
と風呂の中へ声を掛けると、
「いや、ギンブナの小さいのが幾つか。庭の水槽に放してやって」
と帰ってくる。なんだか「空だった」とは言い辛く、
「ああ、わかった」
と返事して、着替えを籠に置いて居間へ戻った。
そんな夢を見た。
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