第七百九十八夜

 
 一週間の疲れを風呂で流し清潔な部屋着に着替えて冷房のよく効いた部屋へ戻ると、乾いて冷たい空気に急速に気化熱が奪われて心地好い。冷蔵庫から酒を取り出し、買い物袋からツマミをテーブルへ並べると、睡魔の来るまで映画でも観て過ごすささやかながら幸福な時間の到来だ。
 子供の頃に観た懐かしい映画が盛り上がってきたところで缶チューハイの一本目が無くなって再生を止め、冷蔵庫へと腰を上げると、バタンと大きな音がして部屋の空気が揺れる。
――またか。
 いつからだろう、日付の変わる少し前の時刻になると、部屋を出るのか入るのか知らないが隣の住人がやけに大きな音を立てて玄関の戸を開け閉めするのだ。ドア・クローザのネジを調整すればそんな閉まり方にはならないし、不動産屋だってそんな状態で鍵を渡したりはしないだろう。ゆっくり閉まるのが待てないほどせっかちだというなら仕方がないが、それなら深夜くらいは音に注意してほしいものだ。
 折角の週末の幸福感に水を注されて苛立ち、また酒の力もあり、今日こそはそう注意してやろうと部屋を出ると、まだ八月だというのに紺色のダッフル・コートを着込み、革製の大きなトランクを手にした男がちょうどこちらに背を向けて階段へ向かって歩いている。
 その背中に「おい」と意識して大きな声を浴びせてやる。が、男はまるで反応せず、そのまま角を曲がって階段を下る。余り大きな声を出せば今度はこっちが近所迷惑を掛けてしまうから、追いかけて肩でも掴んで文句を言おう。そう思って廊下を小走りに階段まで行くと、しかしそこに男の姿はない。
 内廊下に続く階段は他に行き場もないし、下を覗き込んでも人の姿も、よく反響する足音さえない。
 急に気味が悪くなり、急ぎ部屋に戻って鍵を掛け、冷蔵庫から取り出した酒を喉に流し込んだ。
 そんな夢を見た。

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