第三百五十四夜

 

五時を知らせる地域放送の『遠き山に日は落ちて』から遅れること十分、小学校低学年の息子が息を切らして帰宅した。

何故約束通りに帰ってこないかと叱言を言う私を遮って、
「幽霊、幽霊」
と大声で繰り返す。よく見れば、走ってきたらしく息を切らしている割に、顔色が青いようだ。

とりあえず上がってうがい手洗いを済ませるように促すと、彼は手を洗いながらもなお、
「幽霊、幽霊」
と繰り返す。

自室で課題をしていた中学生の娘が降りてきて、ソーシャル・ディスタンスを保つために廊下から洗面所を覗き込むように、弟に落ち着いて話すよう促す。

彼曰く、ここのところ毎日のように、ある同級生の家へ遊びに行っていたという。

両親ともにテレ・ワークとは行かない職種に就いていて、煙たがられるどころか家に一人きりの息子の相手をしてくれると感謝さえされているのだそうだ。
ところが昨日の帰り際は、これまでと少々様子が違った。また明日ねと約束をしようとすると、
「明日はちょっと……」
と彼が渋った。親が休みか何かかと問えばそうではないというので、ならいいだろうと強引に約束させて、結局今日も押しかけた。
「それで、行ってみたらね、いつも遊んでる部屋の隣から、カチャカチャ音がするの」。
その場で遊んでいた者は多分皆、自身の経験から直感的に、例えばプラスチックの電車のような、軽くて硬い玩具のぶつかる音だと悟っていただろうと息子が言う。その家の子に、隣の部屋に誰かいるのかと尋ねると、誰もいないという。誰もいないのに「あんな」音がするものかと咎めるように言うと、
「今日は弟の死んだ日付なんだ。毎月、この日付の日だけ、自分の部屋で遊んでるみたいなんだ」
と説明してくれたという。

渋る彼に無理を言った手前もあり、他の者に格好がつかないという見栄もあり、恐ろしくて逃げ出すわけにはいかない。結局皆、帰りたいのを、或いは便所を借りるのを我慢しながら、いつも帰る合図になっていた『遠き山に日は落ちて』の鳴るまで彼の家でいつも通りに遊んできたのだそうだ。

早口にそんな話をしながら念入りに手を洗った後大急ぎでうがいをし、彼はズボンのボタンを外しながら便所へ駆け込んだ。

そんな夢を見た。

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