第七百五十三夜

 

 用を足してトイレを出ると、冷たい強風が首筋から体温を奪って首が竦んだ。彼女の姿はまだそこになく、出てくる前に何か温かい飲み物でも買ってしまうべきか、彼女の出てくるのを待つべきか悩みながら、辺りの景色を眺める。

 東を見れば小山が連なり、ドライブ中に聞いた話によれば茨城との県境だそうだ。反対側には広く水田の広がる農村で、まだ春らしい色には乏しい。ゴミゴミしたベッド・タウンで生まれ育った身としてはまるで見慣れぬ光景だが、何故か懐かしく心のやすまる風景だ。

 飲み物を買うか買わぬか暫く悩んで、あまり悩みすぎて彼女の出てくるまでの猶予も大分目減りしたろうこと、またこの強い北風で折角温かいものを用意しても直ぐに冷めるだろうことを考慮して、結局もう暫く景色を楽しみながら彼女を待つことに決める。

 と、
――コッ……コッ……
と、何かの音が遠くから聞こえた気がした。風に吹かれて店の前に立てられたのぼりか何かが周囲の物にでも当たったものか。あたりを見回せば確かにのぼりが強風にはためいてはいるが、特に何かにぶつかっている様子はない。しかし、
――コッ……コッ……
というその音は、二、三秒の間を置いて続いている。どうも段々とこちらに近付いてきているようで、少しずつその音が大きく、また細かな音色の印象も聞き取れるようになってきた。どうもあまり聞き慣れぬもので、乾燥した木や石、金属のぶつかる音というよりは、もうちょっと何か、硬いけれども湿ったような、粘り気のあるような、そんなくぐもった衝突音だ。聞きながら記憶を辿るが、まるで素材の心当たりに行き着かない。

 首を傾げながら考え込んでいると、背後からお待たせと声を掛けら、振り向けば彼女が両手に温かい豆乳ラテを持って立っていた。用を足し終えて出てくると何か考え事をしているようだったから、遠慮をして先に飲み物を買ってくれたのだという。

 礼を言って直ぐに、
「この音って、何の音かわかる?」
と尋ねるも、残念ながらその僅かなやり取りの間に、例の音は終わってしまっていたらしくもう聞こえてこない。首を傾げる彼女にその湿ったような粘り気のあるような音を説明すると、彼女は文字通り目を丸くして、
「それって、シズカモチだよ。私も聞きたかったなぁ」
と耳に手を当てて周囲を見回す。聞き慣れぬ言葉に説明を求めると、曾祖母から聞いたという話をしてくれる。

 曰く、その音は餅と餅とをぶつける音で、餅の粉をはたき落としているのだそうだ。それが近寄ってくるときに箕を後ろ手に差し出すと、運気が上がるだとか財を授けてもらえるだとかいうそうだ。残念がる彼女を、
「箕って、あの泥鰌掬いとかで使うザルみたいなやつでしょ?流石に持ってないって」
と冗談交じりに励ますと、
「この帽子じゃ駄目だったかなぁ」
と、頭に乗せたフェイク・ファーのベレー帽の端を摘んで眉毛を下げた。

 そんな夢を見た。

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