第七百五十二夜

 

 トイレから出てハンカチで濡れた手を拭きながら、
「到着するなり申し訳ありません」
と、丸テーブルに書類やタブレットPCを並べていた女性へ、苦笑しながら軽く頭を下げた。
「腸炎か何かですか?大変ですね」
と労りの言葉を口にした彼女はフリーランスのデザイナだ。
「どうも花粉症の症状の一つのようで」
と答えると、そういう症状もあるものかと驚いて、
「田舎の山奥出身なもので、花粉症に疎くてすみません」
と何故か彼女が謝罪をする。

 私のトイレにいる間に、あちらの打ち合わせの準備は整っていたようで、テーブルの傍らに置いた鞄を掴んで彼女に腰を下ろすよう促し、自分も椅子に座った膝の上で鞄から必要な資料類を漁る。
 ここはオフィス街の端にある雑居ビルにある小さなレンタル会議室だ。我が社から彼女に広告デザインの依頼をしたのだが、我が社も小さなベンチャーで、まだ来客用のスペース確保に資金を回す余裕がない。それでこういうところを必要に応じて借り、仕事をしている。

 暫くやり取りをしているうち、また腹の機嫌が悪くなってきた。打ち合わせの終わるまで我慢の利かぬではないかもしれぬが、分の良い賭けであっても万が一に負けた時は悲惨だ。
「申し訳ない、ちょっとトイレへ」
と顔の前で手を立てて見せ、
「はい、お気になさらず」
という彼女に頭を下げて席を立ち、部屋の入口近くにあるトイレのノブに手を掛ける。

 とガチャと重い抵抗があってノブが回らない。おやと思いながら幾度か試すもまるで駄目で、どうやら鍵が掛かっているようだ。
「あの、もし良かったら」
と彼女は手にしたスマート・フォンの手帳型ケースを開き、内側のポケットから小さな銀貨を取り出す。鼻の高く彫りの深い白人女性の横顔が刻まれた外国の硬貨かその模造品らしいが、ラミネート加工か何か、プラスチック質の素材で覆われている。

 それを不思議そうに見つめ返した私に何を思ったか、彼女は摘んで私に差し出したその硬貨をそのままノブの中心へ押し当てくるりと捻る。と、カチャリと鍵の外れる音が続く。
「どうぞ」
と笑顔で促されて礼を言い、中へ入って用を足す。

 一体何が起きたのだろう。入室直後にトイレに入ったときには鍵など掛かっていなかったし、私が出た後に鍵を閉めたわけでもない。一体何故、鍵が閉まっていたのか。

 彼女についても不思議だ。私の様子を見て鍵の掛かっていることを察したにしても、硬貨を差し出し、鍵を開けた手際が手慣れていた。そもそもあの硬貨は何だったのだろう。スマート・フォンのケースにラミネートした硬貨など、普通忍ばせておくものだろうか。なにか幸運のおまじないのようなもので、私の知らないところで流行してでもいるのだろうか。

 トイレから出て礼を言い、
「それにしても、何故鍵が掛かっていたんでしょうか。後で管理会社に連絡したほうがいいのかな」
と苦笑すると、
「あ、いえ、多分私のせいなんです」
と何故か彼女が頭を下げる。

 曰く、子供の頃からしばしば、彼女の周りでは扉と言わず箱と言わず、勝手に鍵の掛かることがあるのだという。自宅のトイレから締め出されてしまうことも少なくなく、銀貨はそういう簡単な鍵を外から開けるために常に持ち歩いているものだそうだ。
「この話をすると、幼くして亡くなった兄弟姉妹のいたずらなんじゃ……みたいに言われるんですけど、別にそんなこともなくて、何が原因なのかさっぱり心当たりがないんですけどね」
と彼女は苦笑してみせた。

 そんな夢を見た。

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