第七百九十五夜

 
 「ちょっと、タオルを持ってきてもらえませんか」
と玄関からの外から声が掛かって振り返ると、外回りから戻ってきた営業が扉の前で立ち止まり、首に掛けたタオルで髪や顔を拭きながらこちらを見詰めていた。まるで池に落ちた犬のようだと思いながら、給湯室へタオルを取りに席を立つ。
「ゲリラ豪雨ってやつですか?」
と尋ねると、
「雷もあったから、ゲリラ雷雨かな。降ってきたと思う間もなく本降りになって」
音を立てて降る雨が余り激しく、雨宿りのできる軒先を探す間に濡れ鼠担ってしまったのだという。お陰で帰路にタオルを買いに店へ入ることもできず、こうして濡れてきたのだそうだ。
 小さな事務所の給湯室に置かれたタオルはそう多くはなく、ありったけでも片手に抱えられる程度しかない。手持ちのタオルで鞄を拭く彼にそれらを渡しながらこれで足りるかと尋ねると、その点は夏の営業職を甘く見るな、汗を掻いた際の着替えの準備は抜かり無いと言い、
「とりあえず更衣室まで入っていける程度に水分を取れたら十分なんだ。靴下もパンツも、スラックスもワイシャツも、みんな予備があるから」
と胸を張る。
 午前中から夕立が降ったり、かと思えば深夜になってからだったりと変な天気が続くものだと様子を見にやってきた社員が苦笑いをすると、
「変と言えば、喫茶店チェーンの入った雑居ビル、あそこで雨宿りをしたんですけど……」
自動ドアの手前に張り出した庇の下で雨を避けても、足元に跳ね返る水滴で膝から下はびしょ濡れになるほどの雨だったそうだ。それが打ち付ける音は雨とは思えぬほど硬いもので、ビルの横手の非常階段が金屋音を立てるほどだった。
 が、それに混ざって遥かに固く重い音が聞こえるのに気が付きた。人間の耳というのは不思議なもので、直ぐに階段を降りてくるハイヒールが脳裏に浮かび、この雨の中で一致どんな人物が外階段を降りてくるものかとそちらを見上げてみた。ところが、ところどころペンキの剥げてサビの浮いた階段には誰の姿も無い。
「音はすれども姿は見えず、とはこのことかと思いましたよ」
と言う彼に、
「あそこ、女の幽霊の出るって噂でもあったりします?」
と尋ねると、
「ハイヒールだから女性というのは、社内だけにしておくこと」
と、横からコンプライアンスの指導が入った。
 そんな夢を見た。

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