第七百八十九夜
商談を終えた取引先からの帰り道、駅前からほんの五分の間に上司ともども汗だくになりながらプラットフォームに付くと、電車を待つ間に、
「商談成立のお祝い」
と言って自動販売機のスポーツ・ドリンクをご馳走になる。
タオルで汗を拭いながらそれを飲み、やがてやってきた電車に乗り込むと、よく冷えて乾いた車内の空気に汗が気化して気持ちがいい。
文明の利器への感謝の話題が一段落すると、帰社後の仕事については駅までの道すがら片付いてしまっていて、しばし沈黙が流れる。何か当たり障りのない話題はないものかと思って車内広告を見回していると、
「あのさ、ちょっとこの写真を見てくれる?」
と上司がスマート・フォンを取り出して見せる。
私用のスマホらしく、ネット上のデータ保存サービスから、ずらりと並んだ画像ファイルの一つを選択する。画質の高いものなのか、電波の具合が悪いのか、上からじわじわと表示されたそれは、彼女と並んだ旦那さん、旦那さんの腰の高さで肩に両手を置いた娘さんが笑顔で写った家族写真だった。皆で麦わら帽子を被り、白と紺とでまとめたお揃いの服装の彼女と娘さんの様子を見るに、つい最近撮影されたもののようだ。
ちょっと気になる点があるとすれば、上司の太腿の裏に隠れるようにしがみつき、顰め面でレンズを睨む小さな男の子だ。
「息子さん、いらっしゃったんですね。恥ずかしがり屋さんですか?」
と尋ねてみる。日頃、仕事の日程調整などで「今週末はバレエの発表会だ」とかの話を聞いていたから、彼女に女の子がいることは知っていたのだが、その下に男の子のいるような話は聞いたことがなかった。と、
「いないの」
と、上司の返事は短い。思わず、
「え、じゃあこの子は?」
と声を上ずらせる私に、
「通りすがりの人に撮影をお願いしたんだけれど、そのときにはこんな男の子、居なかったの。こんな風にしがみつかれて気付かないはずなんてないのに」
と、彼女は形の良い眉の間に皺を寄せた。
そんな夢を見た。
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