第七百五十八夜

 

 ふと目が覚めると付け放しになっていたTVの画面左上に九時を少し回った時刻が表示されていた。晩酌をしながらうたた寝をしてしまっていたらしい。浴衣にどてらを羽織っただけの姿だったので、まだアルコールの残っている身体も少々冷えてしまっている。

 大浴場の閉まる時刻は午後十時だったか。それまでもう一度風呂に入って身体を温めよう。そう思って簡単に荷物――といっても部屋のカード・キィと手拭いだけだが――を整え部屋を出る。

 階段を降りて大浴場へ続く渡り廊下へ向かう途中に便所の入口が見え、酒も入っていることだし風呂の前に用を足しておくかと足を向ける。入口には一足ずつ綺麗に並べられた便所サンダルが並んでいる。便所サンダルといっても、木製の底に布帯の取り付けられたもので結構値が張りそうだ。

 従業員が勤勉なのか、客の行儀が良いものか、隙間なく並んだサンダルの真ん中辺りのものをつっかけて便所に入る。歩くと床のタイルとの間でカコンと軽く愛らしい音が鳴り、何か懐かしさに似た愉快な気分になる。

 そのまま朝顔の前に立って用を足し、綺麗に並んだサンダルの脇にサンダルを脱ぎ、先程脱いだスリッパを履き直す。ふと振り返ると脱いだサンダルだけが左端で踊っているのが美しくない。軽く身を屈めてそれを整え、すっきりとした気分で渡り廊下へ出る。

 渡り廊下の大きな窓からは、下を流れる小川の景色が見渡せる。夕方に来たときには岸から枝を伸ばした桜がまさに見頃だったが、流石にこの時間では近隣の建物の灯りしか見えない。

 渡り終えると直ぐに大浴場の入口があり、そこで再びスリッパを脱いで脱衣場に上がる。スリッパを整えようと振り返り、おやと思う。便所に入る前、数こそ確認しなかったが、サンダルは等間隔に並べられていた。その一つを履いて便所に入り、用を足して戻ってきたときにもサンダルに隙間はなく、その脇に脱いで整えたのだった。その間、誰かが便所に入ってきた覚えはない。誰かが来たのならサンダルの音でそれがわかる。従業員が整えたにしても、相当慎重にことに当たらなければ多少の音はするだろう。一体どうしてあのサンダルは綺麗に並んでいたのか。

 寄った頭ではまるで見当も付かぬまま、脱衣籠に浴衣を入れて大浴場へ向かった。

 そんな夢を見た。

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