第七百二十七夜
お客様のお部屋から内線が入ったとフロントから呼ばれた。少し早いが食事が終わったので露天風呂に入るから、その間に夕食の膳を片付けて布団を敷いておいて欲しいとのことだ。
洗い場に声を掛けてから部屋に向かうとちょうど上階から下りていらした客様と出くわして、頭を下げて道へを譲ろうとすると、
「妙なお願いを聞いてもらって、ありがとうね。お陰でいい思い出ができました」
と、お声を掛けていただいた。とんでもないとこちらも頭を下げ、二人で頭を幾度か下げあったあと笑顔で別れ、早足にそのお部屋へ向かう。
妙なお願いというのは、追加のぐい呑みのことだ。夕飯の際に地酒をお頼みになった後、
「申し訳ないけれど、できたらお猪口をふたつ、お願いできませんか」
と控え目にご希望になったので、もちろんと引き受けて、地元の窯のぐい呑みを二つ、お食事と一緒にお持ちした。
お部屋に伺うと卓の前に恰幅の良い白髪頭のお客様が、写真立てと向かい合って座っていらっしゃった。長患いの末に亡くなった奥様で、入院中はずっと、治ったらあっちへ行こうこっちにも行こうと旅の計画を立てていたのだそうだ。
そんなやり取りを思い出しながらお部屋に着き、鍵を開けて片付けに取り掛かる。綺麗に召し上がられているなと思いながら長盆に食器類を乗せて出入り口近くへ除け、卓を部屋の隅へずらして布団を敷く。これも二組を横に並べておいたほうが好いか、そこまでは余計なお世話だろうかとためらったものの二組目を敷く。
さて後はお膳を下げるだけ、と長盆を持って部屋を出て、バランスを取りながら部屋の鍵を掛ける。鍵穴を確認しようとする視線の先に、ちょうど二つ重ねたぐい呑みが見える。その中身は僅かに酒で湿っているが飲み干されている。片付けるときには気にしなかったが、重なっているということは下のぐい呑みも同じように殻だったのに違いない。
きっとお客様が奥様にお供えした分も召し上がったのだろう。そんなことを思いながら階下の洗い場へ廊下を歩きながら、何となくまたぐい呑みが目を引く。何がそんなに気になるのか自分でも分からず、何となく眺めながら洗い場に持っていき、その明るい照明で照らされて漸くはっきりした。ぐい呑みの縁に、はっきりと、落ち着いた色合いの口紅が付いていた。
そんな夢を見た。
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