第七百八夜

 
電気街でPCのパーツを買ってそろそろ帰宅しようかという折、空がにわかに掻き曇って大粒の雨が落ちてきた。秋分を過ぎて久しいというのにまるで夕立だ。雨具の用意も無く、買ったばかりの荷物を濡らすわけにもいかず、手近な喫茶店へ雨宿りに駆け込む。

珈琲と小さなドーナツを注文してトレイに受け取って店内を見回し、窓辺のカウンター席の右端、入り口からすぐ近くの、観葉植物で仕切られている席が空いているのを見付けてそこに腰を下ろす。ここなら雨脚の弱まったのがわかり易かろうし、隣の客とも椅子一つ空いているから、荷物も邪魔にならない。

その席には飲みかけのアイス珈琲とサンドイッチか何かを載せていたであろう白い角皿を載せたトレイが置かれているが、客の姿はない。トレイは客が返却口へ運ぶ決まりのある店だから、便所にでも行っているのだろう。戻ってきたときに嫌な顔をされたら退けることにして、荷物をテーブルへ遠慮勝ちに置いて、紙袋の中が濡れていないことを確認してようやく人心地着く。

ボディ・バッグから携帯端末を取り出し、行きの電車内で読んでいた電子書籍の続きを読みながら珈琲を啜る。暫く本を読み進め、紙ナプキン越しにドーナツを取って一口齧る。何となく左を振り返ると、隣の席の客はまだ戻って来ないらしい。アイス珈琲のグラスの結露が大きくなって、重さに耐えられず、他の結露を巻き込みながらついと垂れる。窓外の雨も未だ強くアスファルトを叩いて小さな飛沫を上げている。

再びドーナツを手に取ろうとして、その下に敷いていた紙ナプキンが床に落ちる。身を屈めてそれを拾おうとして、奇妙な物が目に入る。踵の低い黒いパンプスが、隣の席の下に揃えて脱いである。隣の客のものだろうが、喫茶店で靴を脱いで便所になど行くものだろうか。靴擦れでも起こしたか、あるいは寛ぐのに窮屈だからと、スリッパでも持参して履き替えでもしたか。考えたところで結論の出るものでもないし、謎を解明したところで何の得があるでもない。ドーナツを齧って読書に戻る。

また暫く雨脚の衰えぬまま読書を続けていると、店員が珈琲のお代わりを勧めにやって来た。カップに注いでもらいながら、
「隣の方、随分と長いこと席に戻っていないみたいですけれど」
と話を振ってみる。もう帰られたのではと言う彼女に足元のパンプスを示すと、まさか捨てていったわけでもあるまい、ひょっとしたらトイレで体調でも崩しているのではという話になり、様子を見てくると言って彼女は早足でカウンタに戻る。気になってその後姿を目で追っていると、彼女は直ぐに不思議そうな顔で戻ってきてトイレはもぬけの殻だったと告げ、
「こちらは裏で預かります」
とテーブルを片付け、靴を持ってカウンタの裏へ下がっていった。

そんな夢を見た。

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