第六百八十夜
うだるような夏の午後、いつも通り閑古鳥の鳴く店内でお手製のかき氷をスプーンで突付いていると、硝子の棒の触れ合う涼やかな音が店内に響いた。戸外の熱気と共に店へ入ってきたのは体格の良い短髪の男性で、年の頃は三十手前歳くらいだろうか。
白くダボダボのTシャツにブルーデニムのジーンズ、赤茶色のブーツと実にシンプルな出で立ちで、鍛えられて分厚い身体によく似合っている。
彼は腰のカラビナから下げていたタオルで顔の汗を拭きながら、体躯に見合わぬ力のない目で店内の棚をあちらこちら見回った後、レジ裏の冷蔵庫にかき氷を仕舞い込んでいた私の方を向き、
「あの」
と大きな声を出す。
一瞬で営業スマイルと他所行きの裏声を用意し、定型句を返す私の返事が終わらぬうちに、
「ええっと、何というか、何を買えばいいのかよく分からなくて」
と切り出す。
なるほど、なにか具体的な悩みがありそうだ。数少ない商機を逃す手はない。
「相談だけなら無料で受けますよ」
と折りたたみの椅子をレジの前に出して座るように促し、冷蔵庫からお茶を取り出して彼に勧める。
「えっと、自分は消防で働いているのですが」
と切り出した彼の悩みは、やはりと言うべきかその仕事に関係するものらしい。
願わくば出張料を取れるような仕事になるまいかという下心が無いではないが、そればかりでもない。お客様としていらっしゃった方には、適正な対価で、それに応じた満足を提供したいのである。ついでに言えば、数少ない客に「効かなかった」とか「逆効果だった」などと触れ回られては商売上がったりだということもある。
時折お茶で喉を潤しながら、彼は職場での体験を語った。
曰く、職場に不思議な先輩がいたいたのだという。消防や救急の隊員は、仮眠中に出動が掛かることがあるそうだ。新人の頃、初めてそのタイミングが来たときのこと、
「ちょうど今くらいの暑い時期だったんですけど、仮眠をしてたら突然、先輩に身体を揺すられて起こされたんです。別にサイレンが鳴っているわけでもない、交代の時間でもないのに『おい、起きとけ』って」。
不満に思いながら身を起こすと同時にサイレンが鳴って出動が掛かり、驚く間もなく身支度をしたという。無事に一仕事終えた後に尋ねると、
「なんかな、この仕事してると偶にあるんだよ。虫の知らせって言うのか『あ、来るな』ってわかるんだ」
と言われたのだそうだ。
それくらいのことならちょっと便利なくらいで、特に困ったことがあるようには思えないと訝しむ気持ちが表情に出ていたのか、彼は小さく首を傾げ、椅子に座り直す。
「少し前に先輩が別部署に配属になったんですが、それ以来、自分に来るようになったんです。その虫の知らせが」。
そう言う彼は日に焼けた顔を青褪めさせ、
「その虫の知らせが、怖いと?」
とこちらが水を向けると、
「怖いというか気持ちが悪いというか、頭の中で聞こえるんです、物凄い悲鳴が……」
と、言葉を選びながら絞り出すように言って俯く。
「それが聞こえたときは、必ず出動が?」
「ええ」
「反対に、聞こえないのに出動が掛かることは?」
「あります、それがほとんどなんですが、最近は頻度が増えてきていて……」。
なるほど、それなりに不思議な現象ではあるが、恐らくストレスが原因だろう。先輩に暗示された奇妙な体験をベースに、自分の体験に無意識の味付けをして経験している。
まあこの店に来る客は大体こんなものである。人間の無意識は不思議なもので、意識を騙すことが少なくない。彼が「虫の知らせを聞くと出動が掛かる」という経験をしているのは事実だろう。だが、実際に起きているのは「出動が掛かったら、その前に虫の知らせがあったように記憶を改竄した」ということなのだろう。実際に彼を出動前に起こした先輩の話は不思議だが、それ以外は彼の無意識の仕業だろう。
しかし、こうした無意識の仕業を理詰めで解消するのは難しい。
「いわゆる霊感が強くて困っている子が、見えなくてもいいものを見えなくなるようにっていう相談はよくあるんです。聞こえないようになればいいというのであれば、そういうお守りがありますけれど」
と小さな水晶の入ったお守り袋を渡すと、彼は幾度も有り難うと繰り返し、嬉しそうに代金を支払って店を後にした。
そんな夢を見た。
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