第六百七十五夜

 

夏至が近付いて随分陽が長くなった。七時を回って尚薄明るい中を最寄り駅から自転車に乗って帰宅すると、先に帰宅して、犬とともに出迎えてくれた妻に元気がない。どうかしたのかと尋ねる私に、彼女は右手を顔の高さに持ち上げて、こんな指だから暫く食事を作れない、とりあえず今日は帰りに買ってきた惣菜屋のもので頼むという。

食事にさして執着はない。それよりも、親指と中指との先に巻かれた絆創膏が気になって、マロンに手でも噛まれたかと、いつか彼女が手を怪我したときのために温めておいたジョークを披露する。マロンというのは二人の足元で尻尾を振っているダックスフントで、パステル・ブラウンの毛並みがモカ・チョコレートの掛かったエクレアを連想させる。

閑話休題。妻は私の渾身の冗談を聞き流し、左手一本で犬にリードを付けるのに苦労しながら、
「昼過ぎに査定に来たお客さんがね……」
と話し始める。

彼女の務める質屋に、派手な格好の女性があれやこれやとブランド品を大きな紙袋に詰めてやって来た。客の貢いだものを処分しに来たのだろう。よくあることだ。彼女の目の前で一つ一つ鑑定し、ラベンダ色の指輪ケースを取り上げようとしたところ、
「こう、中指と親指で摘んだ瞬間、パチンって音がしてね。ほら、爪切りのときみたいな。で、後から痛みが来たと思ったら手袋に血が滲んできて」、
慌てて箱から手を離し手袋を脱いでみると、日本の指の爪が根元付近から縦に真っ二つに割れて血を滲ませていたという。

リードに引っ張られながら歩く彼女は「指先に力を掛けなければ平気だから仕事がどうにかこなせるのは不幸中の幸いだった」と苦笑いを浮かべる。その指輪ケースはどうなったのかと尋ねると、触ることができない以上は買い取りできない、目の前で血を見た客もそれで納得したという。
「先輩達の話だと、よくあるとまでは言わないけれど、『見たり触ったりしただけで何故か気分の悪くなるもの』くらいは、この仕事をしてると割と出くわすんだって」
と平気な顔で言い、それよりもほとんど片手で洗髪するのが難しいのだと口を尖らせた。

そんな夢を見た。