第六百一夜

 

都内や近郊の終電が無くなって程なく、稼働しているタクシーの一台から連絡が入った二時間半ほど前に時間指定のお客様を担当した車だ。

GPSを見れば隣県のど真ん中で、随分遠出をしたものだ。先程のお客様を下ろしてこれから客を探しながら都内に戻る旨の連絡だろう。この時間に流しながら都内へ近付く方向のお客様を拾える可能性は限りなく零に近い。

ところが無線から聞こえたのは、シートの清掃が必要だからこれから事務所に戻るとの連絡だ。長距離でもあったから、お客様の粗相でもあったのかと尋ねると、
「それがどうもよくわからんのですが……」
と彼はいかにも歯切れの悪い様子ながら、走行音混じりに話し始める。

指定の時刻、指定された寺の前に待機していると、恰幅の良い老人がやってきた。大まかに隣県の山の方へと言われて高速道路に乗り、そこから先の記憶がない。気が付くと二時間が経っていて、山中の大きな寺の山門前に停めた車の中で眠っていた。慌ててルーム・ミラーを確認すると既に客の姿はなく、代わりにメータの料金に大分お釣りの出る額の紙幣とともに、
――酷くお疲れのご様子なのでこのまま失礼させていただきます
との文言が毛筆で書かれた懐紙が置かれていた。なるほど寺のお坊様だったのだろう、そういえばそういう体型をしていたように思う。

彼の話をそこまで聞く限り、突然記憶を失ったという彼の体調こそ心配なものの、シートの清掃が必要という理由がわからない。そう尋ねると、
「後部座席の状況を確認した後、車外へ出たついでに眠気覚ましの一服をして車内に戻るったんですが……」
先程まではずっと車内にいて鼻が慣れ、気が付かなかったのだろう、鼻の曲がる獣臭がするのでもう一度後部座席を確認すると、ちょうど客の座っていた辺りにじっとりと油染みが出来て酷く臭うのだと、顰め面の目に浮かぶような声で訴えるのだった。

そんな夢を見た。

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