第五百六十夜

 

二年に上がって初めて教室に入って以来、不思議に思っていることがあった。他の学校、他の地域ではどうかわからないが、私の卒業した小学校では各教室にオルガンが置かれていた。中学に上がるとそれが無くなり、休み時間や放課後に気軽に弾いて遊ぶことが出来なくなって少々寂しかったことを覚えている。

ところが学年が上がって驚いた。教室の後部にアップライト・ピアノが置かれていたのだ。弾けるものなら弾きたい。こっそり鍵盤蓋を開けようとしてみたが、錠が掛けられているらしく開かない。辺りを見回すと、ピアノの置かれたすぐ脇に設えられた黒板にフック付きの磁石が貼り付けられていて、そこに日焼けして色褪せた組紐の結ばれた鍵が吊り下げられている。いかにもピアノの蓋の鍵に相応しく見えるのだが、わざわざ錠の掛かっているものを勝手に開けるのは気が引ける。

ある日の放課後、意を決して担任に許可を求めると意外にもあっさりと許可してくれた。
翌日、教壇に立った彼女は生徒を見回し、
「皆さんに、後ろのピアノについてお話するのを忘れていました。大事に使ってくれるなら、放課後には黒板に掛けてある鍵を使って自由に弾いて構いません」
と宣言する。それを聞いた誰かが、そもそもこの教室にだけピアノが置かれているのは何故なのかと、至極当然の疑問を口にすると、担任は意味深長な笑みを浮かべて話し始めた。

もう何十年も前、学校が酷く荒れていた頃のことだと言う。テレビや雑誌で宇宙人やら幽霊やら、今より遥かにオカルトが取り上げられていた。日本中の小中学校で学校の七不思議が語られたり、新設された学校ではその手の話の無いのを生徒が嘆いたりしていたそうだ。その影響なのかどうか、この教室に一つの怪談話が出来た。

部活を終えた夕暮れ刻、荷物を取りに教室に戻ると女子生徒の人影が見える。心底信じている者は少なかったかも知れないが、それでも人の気配の薄れて薄暗い教室というのは不気味なもので、疑心暗鬼を生んで、実際に体験したというものが現れ始める。そうなるとあれよあれよと話が大きくなり、啜り泣く声が聞こえてくるとか、いやあれは歌声だとかの尾鰭が付いた。
「ここまではよくある話なのだけれど、当時の校長先生が切れ者でね……」
と担任が続ける。

実は遡ること十数年、このクラスに交通事故で亡くなった生徒がいた。彼女はクラスでの合唱を行う行事でピアノを弾く予定で、しかしまだ日本全体が裕福ではなかった頃で、その子の家にもピアノはなかった。そこで練習のために最終下校まで居残って音楽室のピアノを弾かせてもらっていたのだが、暗くなった帰り道で事故に遭い、亡くなってしまった。晴れの舞台での演奏の夢叶わず、それが未練になって化けて出るのか、教室でその女生徒らしき姿が現れるようになった。

そんな話を聞いてしんみりと静かになった教室をゆっくりと見回すと、担任は会心の笑みを浮かべ、
「っていう作り話を生徒達に流したの。噂が広まったところで教室にピアノを置くと、皆安心したのか、それ以降『見た』って言う生徒はいなくなったんだって。その校長先生はちょうど孫娘のために家のピアノを買い替えて、古いのを処分するつもりだったから、それを使って騒動を鎮めるために噂話をでっちあげたんだって」
と種明かしをする。そして再度意味ありげに口の端を持ち上げると、
「でもね、もう半世紀近くも放置されているのに、たまにそのピアノを弾く人がいると、ちゃんと音が出るんですって。誰も調律なんてしていないから、少なからず音が狂っているはずなのに……」
と、わざとらしい低い声で話を締め括った。

そんな夢を見た。