第五百三十七夜

 

スマート・フォンから試験時間の終了を知らせるタイマが鳴って、椅子の上で両拳を突き上げて背筋を伸ばした。塾の先生からは時間を掛け過ぎずに解けるようになれば高得点を狙えるのでその練習をしろと言われるが、問題を解く速度はなかなか上がらずにいる。

午後六時。そろそろ買い物に行った母と妹が帰ってくる頃だろう。駅前の商店街に同級生の喫茶店がある。私なり妹なりが買い物のおまけに付いてゆくと、母は時折寄り道をして、そこで子供にケーキを食べさせながら母親友達と情報交換に勤しむ。五時過ぎまでに帰ってこないということは、今日は寄り道の日に違いない。それは即ち食事の準備に取り掛かる時刻が遅れるということであり、食事の前に喫茶店のお土産のちょっとした甘いものが期待できるということでもある。

試験を解き終えて糖分の枯渇した脳で解答を引っ張り出し、お土産は何だろうかと考えながら機械的に採点を進めていると、玄関の鍵の開く音が聞こえる。

採点を放り投げてお土産を迎えに玄関へ向かうと、妹が脱兎の如くトイレへと駆け込んだので、どうかしたのかと母に尋ねると、母は困ったような顔をして曖昧に返事をし、手を洗って買い物の整理をしながら話し始めた。

買い物を終えて案の定、いつもの喫茶店に立ち寄ってお喋りをした後、二人揃って家を出た。四、五分ほど歩いて住宅街に差し掛かったところで妹が急に用を足したいと言い始めた。駅前商店街へ戻るのも今更で、妹の膀胱も持ち堪えられそうにない。記憶を辿って近くに小さな公園があり、そこにトイレがあったはずだと歩いていく。

そこは小さな公園にしては小綺麗なトイレで小さな小屋のような作りになっている。男女兼用、スロープにも手摺が付いていて、車椅子でも利用できる。疫病騒ぎで子供もおらず、妹はいそいそとスロープを駆け上って戸を開け、中に入った。

ただ、綺麗とはいってもそこは公衆便所とあって食品を詰めた買い物袋を持ったまま近付くのは憚れ、母は扉まで四メートルほど続くスロープの前で妹を待った。

すると間を置かず便所の中から、
「なぁに?お母さん?」
と妹の声がした。紙でも無いのかと母が尋ねると、
「今ノックしたでしょ?」
と妹が言う。当然、母の手はそんなに長くない。届くわけないでしょうと返すと妹は大慌てで小屋を飛び出し、急いで帰って用を足すと言い出したので母はそれに従って、早足で家路に付いた。

歩きながら何があったのかと尋ねると、妹がキュロットに手を掛け、便座に腰を下ろそうとかめた瞬間、
コンコン コンコン
と、扉が叩かれたのだそうだ。初めて見るほど青ざめた顔で、
「風とか立て付けが悪いとかじゃ、絶対にない。はっきり二回ずつ、二回繰り返して、扉の取っ手のちょっと下くらいの高さから聞こえたの」
と訴えるので、どうせ気の所為と否定する気にはならなかったと難しい顔をする母から、お土産の小さなマカロンを受け取った。

そんな夢を見た。

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