第三百九十六夜
週の殆どを在宅勤務で過ごしていて、隣家、といってもアパートの隣室なのだが、最近少々気になることがある。
平日の四時半頃になると、小学校高学年の姉が、弟を連れて帰ってくる。数日前に隣室の父親と顔を合わせた際に尋ねたところ、弟は授業が終わると、ナントカいう学校内の預かり所のようなところで宿題をしながら姉の授業の終わるのを待ち、放課後に二人連れで帰ってくるのだそうだ。
「偉いお姉ちゃんですね」
と素直な感想を述べると、
「これから上の子には苦労を掛け通しになるかと思うと……」
と俯くので、何か困ったことがあれば声を掛けて欲しいと世辞を返したときの、彼の疲れた顔が思い出される。
今日もつい三十分ほど前に姉弟が帰宅して、薄い壁の向こうが賑やかになったところだ。
「こら。またこんな悪戯をして」
「わざとじゃないもん」
「わざとじゃなくても、悪いことをしたら謝るの。ちゃんと謝れないと皆に嫌われちゃうんだよ」
「ママー、お姉ちゃんがイジメる」
「お母さん、嘘だからね。騙されちゃ駄目よ」
と、流石に壁越しなので詳細までは聞き取れないが、大体こういう遣り取りをしているようだ。
時計を見れば五時を少し回って、キリは悪いが子供の声が気になって仕事に集中出来たものではないからと仕事を切り上げ、気分転換の散歩がてら買い物に出掛けることにする。
軽く身嗜みを整えて上着を羽織る間も、姉弟が母親に相手の非を訴えているらしいざわめきが続く。
支度を終えて共用廊下へ出ると丁度隣の扉が開いて姉が姿を現し、こちらに気付いて、
「こんにちは」
と頭を下げる。
「晩御飯のお遣いかな?偉いね」
と私が返すと、彼女は、
「お母さんに頼まれたの。弟がまだ小さくて手間が掛かるからって、最近はずっと私がお買い物なの」
と頬を膨らませる。、
「それだけ頼りにされてるんだね」
と微笑むと、彼女は元気にうんと頷いて、大きなエコ・バッグを揺らしながら廊下を駆けて階段の向こうへ姿を消す。
一人残された私も、弟の声の響く廊下を速歩に後にする。
一家がここへ越してきたのは夏休み中のことだった。挨拶に来た父親の憔悴仕切った顔を見て、つい余計な詮索をした私に彼が言うには、
「子供の学校があるので、学区も最寄り駅も変わらないんですが……」
それまで住んでいた家ではどうしても亡くなった奥様を思い出して辛いからと、まだ小さな子供と三人暮らしになら十分だとこのアパートへ越してきたのだそうだ。
だから私は彼女の顔も知らないし、声も聞いたことがない。
そんな夢を見た。
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