第八百三夜

 
 駅から徒歩五分の間に吹き出した汗をタオルで拭いながら事務所に入ると、既に冷房を効かせていた同僚がおはようと声を掛けてきた。その声の調子がどうも弱々しい。何かあったかと尋ねると、昨晩女性に振られたという。
 それは残念だったと返すと、訊いてもないのにことの詳細を語り始める。まあ、それで気が済むのであれば始業の準備でもしながら聞き流してやろう。
 お相手の女性は、彼が会議室代わりによく使う喫茶店の店員で、学生のアルバイトだそうだ。一目惚れをしてオフの日にそこへ通って声を掛けると、
「私は止めたほうが貴方のため」
とよくわからぬ理由で断られたが、どうにか食い下がってデートに漕ぎ着けた。
 映画に行ってカフェに入り、その言葉の真意を尋ねると、
「私、子供の頃から『一歩間違えていたら大惨事』ってことが多いんです」
と言う。保育園の散歩の時間には列に車が突っ込んでくる、小学校の遠足の山登りでは落石が、中学校の修学旅行では旅館が火事に、兎に角、何か本人が楽しみに思う行事があればその度に規模の大きな事故が起こるのだそうだ。
「でも、貴女自身は無事なんでしょう?」
と尋ね、
「眼の前で不幸が起きて『ああ無事で良かった』とは思えないでしょう?」
と答える彼女に、彼は惚れ直したと言う。
 その話題は適度に切り上げ、もう暫くお茶を楽しんだ。さて今日はお開き、駅まで歩いてそこでお別れと二人並んで歩いていると、急に彼女の左のヒールが折れた。改正を崩した彼女に気付いて振り向くと、背後でバンと大きな音がして、周囲がざわざわと騒ぎ始めた。飛び降り自殺だった。
 彼女は折れたヒールを手に持って、無理に笑顔を作って一礼すると、そのまま人混みに紛れて消えてしまった。
 そんな夢を見た。

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