第七百八十六夜

 

 前期日程も残すところ僅かとなって、帰省の日程を相談しようと母にメッセージ・アプリで連絡をした。時間のあるだろうタイミングを見計らった甲斐あって直ぐに返事が来るが、暇ならたまには声を聞かせろというだけの文言だ。
 まだレポートも書かねばならぬし試験勉強もせねばならぬ。暇というわけではないのだが、少しだけならと音声通話に切り替える。
 お盆のお墓参りの予定を聞き、アルバイトの都合を付けてその前後でしばらく帰省すると伝えて電話を切ろうとすると、
「あ、ちょっと待って。お父さんがあんたと話したいって」
と引き止められる。
 たまには独り暮らしをさせている娘の声を聞きたいという父の些細な願いくらいはと思いあちらの電話口の変わるのを待つ。直ぐに
「おう、元気だったか」
と矢鱈に元気な声がして、たかが三ヶ月ぶりというのにちょっと懐かしい気分になる。何か変わったことはないかとありきたりな父の質問に、特に何もと答える。
 すると、
「いやいやそんなことは無いだろう」
と父が妙な食い下がりを見せる。どんな返答を期待しているものかと頭を捻りながら、風呂の排水口に髪の毛の詰まるのが意外に早いこと、今年は特になのか押入れの中に直ぐにカビが生えて困るとか、独り暮らしを始めて気が付いたあれこれを思い出しながら語ってみる。
「うーん、まあそんなものなのかなぁ」
と残念がる父に不審な気配を感じ、何を隠しているのだと問うと、
「お前の部屋な、駅の近くで割と綺麗だろう?」
と言う。確かに、ターミナル駅からほど近い住宅街の駅前で、独り暮らしには十分に広く、洗濯機も室内に置ける、小さいながら外干しのできるベランダもある、内装は綺麗だしオートロックも有り難い。多少電車がうるさい他は文句の付けようのない部屋だ。我儘を言って上京した娘としては感謝する他無い。
「そこな、角部屋でちょっと天井が斜めになってる代わりに床面積は隣より少し広いんだけど、家賃が半分以下だったの」
「え?なんで?」
「去年の暮に、住んでたカップルが風呂場で心中したんだってさ。部屋の中は綺麗だったし、風呂は中身を全とっかえしたからなんでもないんだけど、やっぱり噂が広まって借り手が付かなかったんだそうだ」。
どうしてそんな部屋をと尋ねると、家賃も理由の一つだが、
「何か起きたら楽しいじゃないか。今度時間ができたら、お父さんも泊まらせてくれよ」
とさも楽しそうに笑うので、先程の感謝は取り消すことにした。
 そんな夢を見た。

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