第八百八夜

 
 眠い目を擦りながら手拭いを手に部屋を出、共用の細長い洗面台で顔を洗う。折角の小旅行だが、メイン・イベントは不発だったようだ。後はせめてこの宿の朝食と、昼過ぎまでこのあたりの観光地を巡って取り返さねばと前向きに考えるよう努めてみる。
 首に掛けた手拭いで顔の水を拭き、さっぱりとしたところで、
「あら、おはようございます」
と背後から声を掛けられて振り向くと玄関から女将さんが上がってくるところで、大きな発泡スチロールの箱を胸の前に抱えている。捕れたての魚が入っている、一部は朝食にも出るから期待してくれと胸を張る。
「期待といえば、昨日は残念ながら何も出なかったようで」
と言うと、随分晩くまで粘った記憶がそうさせるのかむしろわざとらしく欠伸が出た。
 女将さんは奥の旦那さんへ声を掛け、箱を彼に渡すと、
「本当に出ませんでした?ラップ音とかも?」
と訝しげな顔をする。丑三つ刻を回るまでねばったがと答えて首肯すると、彼女は胸の前で腕を組み、右手で顎を支えながら天井を見上げる。数秒そうして何事か考えた後、
「ここだけの話にしていただけますか?」
と切り出す。
 ここは山が海へ迫り出すような自然が売りの観光地の小さな民宿で、ネットでその部屋の一つが「出る」と噂され有名なのだ。どうにか予約を入れて訪れた昨晩にそれとなく尋ねると、宿の方でも事情を把握していて、
「実害があったと言う話は聞いたことがないので、ぜひ楽しんでいってください」
と笑う彼女に驚かされた。しかし、午前三時を回るまで起きていても何も起きず、寝不足のまま先程顔を洗った次第である。
 そう告げると彼女はちょっとお部屋へと私を先導して部屋に入り戸を閉める。
「内緒ですよ」
と言って押入れの襖を取り外し、その裏の片隅に小さなツマミのあるのを見せる。ツマミを引くと襖に薄い隙間が現れ、何やら小さな電子機器らしき配線が詰め込まれているのが見える。
「主人がこういうのが得意で……」
と囁いてエプロンから取り出した小さなリモコンのボタンを押すと、障子からパキリと音がする。
「これは動作確認用なんですけど、毎日十一時頃から、ラップ音とか小さな明かりが部屋の中を横切ったりとか、そういうのがある程度ランダムに起こるようになっているんです」
と説明する彼女は眉根を寄せ、
「三時まで何も無かったというなら、物凄い低確率で、ランダム動作が何も動かなかったんでしょうかね。ごめんなさい」
と頭を下げた。
 そんな夢を見た。

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