第七百八十三夜

 
 渡された試験範囲表を片手に眺めながら、びっしょりと汗を掻いたグラスを手に取り、ストロを咥えて珈琲を吸う。梅雨の中休みというのか、薄雲は広がりながらも気温が高く蒸し暑い中を歩いてきて火照った身体から、エア・コンディショナの乾いた冷風が急速に熱を奪って行くのが心地好い。家庭教師のアルバイトは貧乏学生には全く天国である。
 もうじき期末試験だというので、試験範囲から山を張って解く問題を指示すると、彼は大人しく従ってシャープ・ペンを動かし始める。質問があればいつでも声を掛けるように言ってこちらもノートを取り出す。試験が近いのは同じなのだ。
 幾つか問題を解き進め、解説をしたところでお母様がお八つと飲み物のおかわりを持ってやってきて休憩を取る。クッキーを手にとって一口齧ると、
「先生って、泳げますか?」
と彼が呟くように問う。小学生の間はスイミング・スクールに通っていたからまあ人並みには泳げる方だと答えると、
「いいなぁ」
と彼は心底羨ましそうに嘆息を漏らす。
 全くの偏見だが、家庭教師を頼むほど裕福で教育熱心な家庭で水泳教室に通っていないというのは珍しいのではなかろうか。運動神経もさして悪くなかろうに、と素直な感想を述べると、
「トラウマがあって駄目なんです。風呂の湯船も駄目なくらいで」
と恥ずかしそうに頭を掻く。溺れた経験でもあるのかと尋ねると、ちょっと違う、水そのものではなく、ある程度の量の水の溜まった入れ物が駄目だという。コップや味噌汁の椀、鍋くらいまでは平気だが、ラーメン屋にあるような大きな寸胴鍋くらいになると駄目になるそうだ。
 なんでまた、そんな微妙な具合のトラウマを抱える事になったのかと尋ねると、
「小学校に入りたての、夏休みのことなんですけれど」
と、青々と木々の茂る窓外を一瞥してから話し始める。
 小学一年生、人生初めての夏休みのある日、仲の良い友達と三人で近所の家に遊びに行ったのだという。
 それなりに高級な住宅街の中でも大きな家で手入れのされた広い庭に大きな長毛の犬が居て、華奢な「おばあちゃん」が一人で暮らしていたらしい。母親と幼稚園から帰る途中、犬の珍しさに塀の外から眺めていて声を掛けられ、以来しばしば遊ばせてもらっていた。夏になると長毛の犬の夏バテ対策に大きなゴム・プールに水を張るので、一緒に水遊びに興じたのだそうだ。
 今年も犬と一緒に水浴びをと思い、友人を連れてその家を尋ねると、いつもの塀の隙間に犬がやってきて、いつになく強く鋭く吠えまくる。毎朝通園、通学で挨拶をする仲で、吠えられたことなど一度もない。見慣れぬ友人を連れてきたせいかと思って諦め、他で遊ぶことにした。
 その日の夕方、買い物から帰ってきた母親が青い顔をして彼に告げるには、「おばあちゃん」の家に強盗が入って大怪我をしたらしい。人懐こい犬が珍しく吠えるので近所の人が早期に通報して大事には至らなかったそうだ。
「あのとき、犬が吠えたのは『おばあちゃん』を助けてほしかったんだろうなと思うと申し訳なくって」
と俯く彼に、
「きっと、近寄っちゃいけない、逃げろって教えてくれたんだよ」
と慰めの言葉をかけると、彼は力なく笑ってアイス珈琲のストロに口を付けた。
 そんな夢を見た。

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