第七百七十九夜

 
 昼食時を少し過ぎ、出勤している社員の皆で職場近くの少しだけ高級なご飯屋さんへぞろぞろと向かいながら、
「今年は梅雨入りが遅くてもう大分暑いから、夏バテしないように精のつくものを頼んで下さいね」
と後ろを振り返った社長が笑う。今日は月に一度の昼食会で、懇親を深め、職場への不満を聞きたいという社長の奢りで、近所のご飯屋さんを貸し切りにして十名ほどの社員で食事をする。ここ数年人の出入りがなくて季節ごとの開催になっていたのだが、今年は一人新人が入ったため、今日で三度目となる。
 食事から各々の職場へ戻るのだろう人の流れに逆らう形になって少々歩きづらい中をご飯屋さんへ付くと、既に準備の整った店内へ招かれて皆思い思いの席に荷を置く。
 カウンタ席に並べられた大皿から各自で出来立ての料理を皿に取って席に着くと、社長が簡単に音頭をとって乾杯する。
 食事が始まると話が振られるのはやはり今年の新人で、人間関係はどうとこうとか尋ねられながらでは折角のヒレカツの味も分からなかろうと同情する。
 デスク周りで必要なものとか、冷房の効き具合とか、そういうところに不満はないかと社長が尋ねる。彼女のためのデスクの設置で、久し振りに事務所の模様替えを行ったのだ。入社当時は春でまあ然程寒くも暑くもなかったろうが、この季節には気になるところか。
「いえ、特には……」
と言い掛けた彼女はしかし、
「そういえば、一つだけ気になっていることがあって」
と箸を止める。
「私の席の横の壁に、小窓があるじゃないですか。あれを、カーテンか何かで塞がせてほしいなって」
と言う。なるほど、窓といっても雑居ビル街のオフィスの裏面の窓だ。間にあるのは小さな非常階段とその下のごみ置き場くらいで、窓から見えるのは隣のビルの壁だけで風景を楽しめるものではない。それどころか、時刻によっては僅かな隙間から入った陽光が壁に反射して眩しいこともある。彼女の入る前までは背の高い観葉植物を置いて半ば塞いでいたのだった。
「確かにあれ、夕方に眩しいときあるよね」
と横手の先輩が同意すると、
「まぶしいのもそうなんですけど、なんていうか、覗かれてるような視線を感じるんです。非常階段って、カンカン音が響くじゃないですか。直ぐそばで足音が聞こえて、誰か登ってきたのかなって振り向くと、気配だけはするのに誰も居ないっていうのが何度もあって」
と、彼女は味噌汁の椀を持ち上げてそこに視線を落とした。
 そんな夢を見た。

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