第七百七十四夜
先生が教室に入ってくるまで数分の時間潰しのつもりで朝読書に持参した本を読んでいると、しばらく熱中したところで引き戸が開いて先生が入ってきた。顔を上げるとジャージ姿の先生の上の壁掛け時計はいつもの朝会の時刻を五分以上過ぎている。
トイレにでも行っていたのかと思う間もなく、
「今日は悲しいお知らせがあります」
と、いつになく低い調子で話を切り出す先生の声と顔に、ざわついていた教室は一瞬静まり、そして控えめに再びざわつく。
「橋を渡る通学路の人は手を挙げて」
の声に反応した生徒は教室の三分の一ほどだ。川沿いのうちの学校で橋といえば校門横の橋のこと、学区の真ん中をちょっとした川が流れていて、川の向こうに住んでいる子はみんな先ず橋を渡って帰宅する。その先に川と並行する大きな幹線道路があって、低学年の頃は一人でそちらへ遊びに行ってはいけないと親に厳しく言われていたものだ。
先生は手を挙げた子達の顔を一人ひとり見つめた後、
「みどりのおじさんは、みんな知っているだろう。あのおじさんが、今朝亡くなったそうだ」
と告げると、皆口々にまさか、信じられない、元気そうだったのになどと騒ぎ始めるが、先生はその様子を暫く黙って見つめるだけで、私語をたしなめる様子はない。みどりのおじさんというのは毎朝通学時間に子供の見守りをしてくれているボランティアの方々のことで、川向うの幹線道路の交差点の担当の方らしい。うちの学校へ川向うから来るにはその交差点を通って橋を渡らなければならないから、川向うの子は皆顔見知りだそうだ。
手を挙げた子達の一人が、
「やっぱり、車の事故ですか?」
と尋ねると、幸いというべきか事故ではなく、今朝奥様が起きてみるとベッドの隣で息を引き取っていたのだという。
その言葉に教室が一気に騒がしくなる。
「変だよ。さっきだって黄色い旗を持って、横断歩道を渡らせてくれたもん」
「そうだよ、だから私だって事故かと思ったんだもん」。
そうだそうだと川向うの子達が大合唱を始める。登校の時間帯、つまりついさっき、川向うの子達は皆おじさんの姿を見ていたのだから、朝起きたらベッドで亡くなっていたなんて、そんなはずがないというのだ。
それでも先生は、
「おじさんの奥様が、そんな大変なときに律儀にも『子供たちの見守りが出来なくて申し訳ない』と学校に電話をしてきてくれて……」
その電話で間違いなく「朝ベッドで」
と事務員さんが聞いたのだと、朝の職員会議で説明されたのだと困った顔をしてみせた。
そんな夢を見た。
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