第七百六十二夜

 

 事故で大幅に遅れた列車に朝から不機嫌に事務所に着くと、いかにも寝不足と言いたげな隈を目の下に作った同僚がデスクの前で虚ろな目をして珈琲をスプーンで掻き回していた。その余り窶れた様子に自分の不機嫌さは何処かへ飛んでいって、睡眠不足の理由を尋ねる言葉が口を突いて出る。

 しかし彼の返答は、
「うーん、何ていうか、抱き枕が戻ってきたんですよ」
とまるで事情の分からぬものだ。まあ体調不良によるものだろうと詳細を説明するよう促すと、その抱き枕とは今年の初め、正月の初売りで安く手に入れたものだと言う。

 正月と言っても独り身で特にすることもなく、親へのプレゼントも考えつつ近所のショッピング・モールの初売りへ出掛けて、家具やら何やら色々の店を、なにか掘り出し物はないものかと見て回った。その途中、直径二十センチメートル、長さ一・五メートルほどの円筒形の抱き枕が安くなっていたのが目に入った。これまで抱き枕というものを使ったことはなかったが、駄目なら捨てても構わない程度の値段だったこともあり、すぐに購入して大きな袋で持ち帰った。

 夕食に餅を焼いて夕食を済ませ、惣菜屋の正月料理で酒を飲んでいるといい時間になった。さて、初夢はどうなるものかと寝てみると、これが実にちょうど良い。太さ、弾力、カバーの肌触りを楽しむつもりが、程なく寝入ってしまった。

 翌朝、心臓の異様な拍動で目が覚めた。寝間着は全身が汗でぐっしょりと濡れて肌寒いほどだ。何かに驚いた後の興奮が尾を引いているときの気分だが、何を夢に見たのかは全く覚えていない。そんなことが三日続いて流石に病院を訪ねたが、検査の結果は何も無し。ならば心当たりは抱き枕しか無かろうと、病院から帰ったその夜のうちに、二つ折りに縛って無理にゴミ袋へ詰め込み燃えるゴミに出した。
「その日はすっきり起きられて安心したんですけど、出社のときにごみ置き場の前を通ったら、回収はまだなのにその抱き枕が無かったんですよ。誰かが持っていたんだろうと思うんですけど」
と彼はこめかみを掻き、
「変なことになってないと良いんですけどね」
と、ゴミ泥棒の健康を心配するのだった。

 そんな夢を見た。

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