第七百五十七夜

 

 スーツに付いた春雨の雫をタオルで拭っていると、今年新入の女の子が出社してきた。彼女は荷物をデスクに置きながら、
「おはよう……」
と言った後目を丸くしながら絶句して、
「……申し訳……ありません」
と今にも泣きそうな表情で頭を下げる。そのまま軽いパニックに陥ったような慌てふためいた様子で辺りを見回し、彼女より少し年上の先輩社員の名を呼びながら小走りで寄って行く。

 始業時刻まではまだ少し時間がある。興味本位で彼らの元へ行ってみると、
「昨日の暗示、まだ解けてないみたいなんですけど」
と後輩が涙目で訴える。暗示とは何のことかと尋ねると、昨晩の終業後に事務所近くの馴染の居酒屋で行った歓迎会の席で、先輩社員が彼女に催眠術とか催眠暗示と呼ばれるような宴会芸を披露したそうだ。どうやらその最中、
「数字の五が言えないっていう暗示を彼女に掛けたんです。指を折りながら一、二、三って数えていくと、五が言えなくなっているよって」
と先輩社員が説明する。

 後輩はしかし、
「数字だけじゃなくて、さっきも、あの……えっと」
と、言えない言葉を説明しようと苦労している。なるほど、「おはようございます」の「ご」や、「ごめんなさい」の「ご」も言えなくなったということか。

 ともあれそのままでは業務に支障が出る。早く解いてやってくれと指示をする。
「うーん、昨日解いたはずですし、あの程度の暗示は解かなくても普通は一晩寝たら解けるものなんですけど」
と言い訳に口を尖らせる先輩社員の言葉を聞いてふと思い付く。
「ちょっと、指を折って数字を数えてみてくれる?」
と促すと、後輩はイチ、ニイ、サンと指を折り、
「五!」
と嬉しそうに目を輝かせてこちらを見る。

 どうやら解いたのは数字の五だけ、暗示を掛けるときには「ご」という音の全てを禁じてしまっていたのだと、先輩社員は彼女に説明し、平謝りをしながらその暗示を解いた。

 そんな夢を見た。

No responses yet

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

最近の投稿
アーカイブ