第七百五十一夜

 

 仕事を上がろうとしたタイミングで足止めを喰らい帰りが遅れてしまった。薄暮の帰路を早足で、既に学童から帰っているはずの息子の元へ急ぐ。春分も間近になって日の暮れきるのにはまだ時間があるとはいえまだまだ風が冷たく首が竦む。
 マンションへ着き、鞄の中でキィ・ケースを探りながらホールへ入ると、なんとランドセルを背負ったままの息子がエレベータの前に立っていた。帰宅したら遅くなったことを詫びようと思っていたのは一遍に吹き飛んで、
「こんなところで何をしているの」
と、棘のある言葉が口を突いて出て、直ぐにしまったと反省をする。
 が、幸い息子は、
「エレベータでね、ノックごっこしてたの」
と上機嫌に答える。言葉の裏を読めず、皮肉の通じないのは誰に似たのだろうか。それはともかく上階に留まったままでいるエレベータの呼び出しボタンを押し、
「ノックごっこって何?」
と手持ち無沙汰に尋ねてみる。思春期の女子は箸の転げても可笑しい年頃というけれど、自分のそれと比較して遥かに楽しそうな彼はどんな年頃といえばよいのだろう。
「あのね、ドアの前まで来たらね」
彼はたどたどしい言葉ながら一生懸命にノックごっこの詳細を、不思議に自慢げな様子で語ってくれる。
 曰く、呼び出しボタンを押すべくエレベータの前まで来ると、目の前の扉がコンコンと音を立てたという。機械の都合や風で吹かれて金属同士がぶつかったような音でなく、確かに人の手指の関節の、硬い骨を柔らかな皮膚で薄く覆ったものが金属を叩くような音で、確かに扉の向こうから叩かれたように聞こえた。エレベータの扉には上半分が見えるようガラス窓が嵌められているが、彼の身長だと背伸びをしてもその裏側は覗けない。見えないところに何かいるのかと、試しにノックをしてみると、確かにノックが返ってくる。ゆっくり打てばゆっくりと、素早く連打すると素早く、そっくり真似をしてノックが返って来る。
 それで夢中になって扉を叩いているうちに私が返ってきたというから、学童から帰って一時間近くもそうしていたようだ。
 チンと甲高い音が鳴って開いた扉を潜るか一瞬だけ躊躇うが、息子に手を引かれて乗り込むと、いつもと何も変わらぬエレベータだった。
 そんな夢を見た。

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