第七百三十九夜

 
 昼食から戻って用を足し、ハンド・タオルで手を拭いながらデスクに戻ろうと歩いていると、急に名前を呼ばれた。人の顔を覚えるのは苦手ではないが、手を振りながら歩み寄ってくる男性の名はピンとこない。
――確か営業のナントカさん……
と記憶を辿っていると向こうから名を名乗り、
「実はお願いがあるんです」
と切り出す。戸惑う私から警戒を感じ取ったのか、彼は本職の営業スマイルを繰り出して、
「いえ、大したことではないんです、本当に」
と言って、ひとまず私に席に着くよう促すと、
「もしまだ持っていらっしゃるなら、例の年賀状を譲っていただきたいのです」
と頭を下げる。
 例の年賀状と言われて思い当たるものが一つあった。年明けにアパートの郵便受けを覗いたとき、一枚だけ奇妙な年賀状があったのだ。表には宛名書きも差出人も書かれておらず、年賀状だから消印も無い。裏面にはびっしりと毛筆で何かが書かれているのだが、どれも文字とも記号ともつかぬ図形のようで、縦書きなのか横書きなのかさえはっきりしない。余り奇妙で気味が悪く、仕事始めの頃同僚達に話したのが彼の耳に入ったのだろう。
 気味の悪さに触るのも捨てるのもためらわれたから未だに捨てずにいるし、手元に置いておきたいとも思わないから譲るのに吝かではない。けれど、
「どうしてあんなものがほしいのですか?」
と尋ねる。
 すると彼も首を捻り、
「実は僕もそれが何なのかは知らないのだけれど……」
と前置きして、取引先との雑談に社内で聞いた奇妙な年賀状の話をしたところ、その相手がその葉書を集めているから譲って欲しいと言い出したのだそうだ。その話をしたときの反応が特に顕著だったそうで、
「漫画みたいに目を丸くしてさ、現実にあんな反応をする人っているんだなって」
と眉根を寄せた。
 そんな夢を見た

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