第七百二十一夜

 

 晩酌のツマミもぼちぼち残り少なくなってきたところで、観るというよりは眺めていた映画が今ひとつ物足りないまま終わってしまった。もう暫く時間を潰そうとネット配信のニュース番組をモニタに映す。

 と、突然アパートの扉が音を立てて叩かれて心臓が縮み上がる。酔っ払いでもやって来たかと思えば、開けてくれと叫ぶ後輩の声が扉越しに聞こえてくる。

 高校時代の部活の後輩で、むしろ社会人になってからのバイク趣味でちょくちょく会うようになったのだが、今日は特に何の約束もしていない。とりあえず夜中にこの騒ぎは近所迷惑だと声を掛けながら戸を開けると、びしょ濡れの後輩が真っ青な顔で玄関に入ってきて大慌てで振り返り、震える手で戸に鍵とチェーンとを掛ける。

 尋常でない様子に何があったのかと尋ねようとして、しかし余りの異臭にとりあえず風呂に入るように言う。よく見れば靴も服も泥だらけで、ドブ川か何処かにでも落ちてきたような有様で異臭を放っている。

 女がどうのバイクがどうのと訴えようとする彼を落ち着かせる意味も込めて、汚れた服を土間に脱いで風呂に入るようにきつめに言い付ける。なお食い下がる彼の話には耳を貸さずに背を向けて、風呂から上がったら服を貸してやると言って箪笥に向かうと彼もようやく諦めたか、背中の後ろでガチャガチャと服を脱ぐ音がして、
「失礼します」
と部屋に上がって風呂へ向かう足音が続く。

 適当に服を見繕ってから、風呂に湯を張って体を暖めろ、臭いが取れるまで出てくるなと釘を刺し、着替えを風呂場の前に置いてやる。

 洗面台の下から雑巾とバケツを取り出して彼の歩いた後に残る濡れた足跡を拭うと、やはりドブのような生臭さが鼻を突く。脱いだ服はビニル袋か何かに詰めて、後でコイン・ランドリィにでも行かせるか。

 そう思ってゴミ袋を取り出し、びしょ濡れの衣類を詰め込んで玄関の隅に置き、異臭を放つ汚水を雑巾で拭き取る。途中、換気扇を付け、バケツの水を交換し、ようやく掃除の終わるのに優に三十分は掛かったろうか、すっかり酔いが冷めてしまった。

 まだ上がってこない後輩へ服の始末の話をしようと風呂場の前に立って声を掛ける。が、中から返事はない。返事どころか物音すら無い。まさか中で体調でも崩したのではと戸を開けるとそこはもぬけの殻で、僅かに生臭い足跡の残る他には湯を出した形跡すら無い。

 風呂場には窓もなく、出ていったとしたら玄関から以外にない。風呂に入る前、服を出そうと背を向けているうちにこっそり抜け出したにしても、彼の服は玄関前に袋詰めのままで、この寒空を濡れて裸で出ていけるものか。

 ふと思いついて玄関の戸を見れば、彼が震える手でそうしたまま、鍵とチェーンが掛けられていた。

 そんな夢を見た。

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