第七百二夜

 

昼休みになって外へ出ようとすると、小太りの同僚から声を掛けられた。普段は弁当を持参して食べている彼だが、今日は事情があって作れなかった、どんな飯屋があるのかまるで知らないから何処かおすすめの店に連れて行ってほしいと言う。

特に断る理由もなく、連れ立って事務所を出て日照りの中を駅前へ向かう。歩きながら、
「先刻、作れなかったと言ってましたけれど、自分で作っていたんですか?」
と尋ねると、
「ええ、妻が他界してからだからもう十年以上」
と涼しい顔で答える。
「奥様、亡くなってらしたんですか。それは失礼を……」
「いえ、こちらに移ってくる前のことですから」
「でも、よく続きますね」
「弁当といっても、精々が茹でたり焼いたりですから。凝ったものは弁当用の冷凍食品なんかがあって、楽なものですよ」。

そんな会話に続いて食べたい物の種類やらを尋ねて洋食屋に入り、二人してカツ・カレーならぬカツ・ハヤシライスを頼む。

汗を拭きながら水を飲むと、正面の席に座る彼はポケットから取り出したスマート・フォンを弄り始める。その薬指には銀色の指輪がいつも通りにはめられている。間もなく彼は画面をこちらに示す。この店を地図で捜していたようだ。

ほどなく皿が運ばれてきて、一口食べると彼は満足そうに頷く。暫く言葉少なにスプーンを口に運び、粗方片付いたところで、
「しかし、どうして今日に限って弁当を作れなかったんですか?」
と、なんの気無しに尋ねてみると、
「うーん、寝坊というのではないのだけれど……」
と相変わらずの涼しい顔のまま、
「うちに、ちょっと大きなクローゼットがあるんですよ。生前、妻が使っていたものなんですけれど、片付けるのも忍びなくってそのまま。それが今朝、扉が空いてたんです。十年ぶりかな、妻のものだから気が引けて、虫が湧くでもないし、妻の実家の方々に形見分けして以来、中は空けてみたことがなかったんです。で、妻の好きだった香水と、防虫剤とちょっとカビ臭いような匂いが漂ってきて、それがなんだか変に心地がよくって。気付いたら一時間くらい経ってて、慌てて出社してきたもので」
と頬を掻いた。

そんな夢を見た。

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