第七百夜

 

事務所で仕事をしていると、人の出入りの都合で不意に一人きりになっていることに気が付いた。小さな事務所といえど珍しい。仕事に一区切り付いたところで給湯室へ席を立つ。お茶を淹れようと薬缶を火に掛けると、事務所の電話が鳴った。

火を消して無人の事務所へ戻り、手近なデスクの受話器を取ると、
「やあ、久し振り」
と聞き覚えのある声がする。
「ああ、どうもお久し振りです。お元気ですか?」
と返した相手はかつての上司で、数年前に定年退職して今は夫婦で小さな喫茶店をやっている。年賀状で開店の知らせを受けて一度顔を出したきり会っていなかった。

その非礼を詫びる私に、しかし彼はほとんどそれを無視して、
「それよりも、気を悪くしないでほしいのだけれど……」
と用件を急ぐ。
「いやね、昼の部が終わってついさっきまで休憩でね、ちょっと、うとうとしていたんだけれど、気が付いたら真っ黒な煙に捲かれていてね。慌てて逃げようと思ったら足元に君が倒れてて、慌てて担いだら扉から火が噴き出してきて……で、目が覚めたんだ。今思えばその扉が、事務所の扉でさ」
「なんだ、夢ですか」
「うん、夢なんだけれど何だか落ち着かなくて電話をしたんだ。いや、君が無事ならいいんだ、安心した」。

定年をしてもかつての部下の心配をしてくれているのかと思うと有り難いやら情けないやら複雑な気分だ。とにかく、彼へ丁寧にお礼を言い、近いうちに店へ顔を出すと約束して電話を切ろうとしたとき、

ジリリリリリリリ

と大きな非常ベルが鳴り始め、廊下から階下のファミリー・レストランのチェーン店から火が出たと叫ぶ声が聞こえてきた。

そんな夢を見た。