第六百九十二夜

 

「なあ、この髪の毛、心当たりあるか?」。
何年かぶりに父の口からその言葉を聞いたのは、疫病騒ぎ以来久し振りに帰省した翌日だった。

人間の記憶というのは不思議なもので、たった一言で十年近くも前の出来事を機能のことのように思い出す。

私がまだ専門学生だった頃、家の床に落ちていたのだと数本の長い黒髪を手にした父が私に尋ねたのだった。

当時母は病死して、家族は父と弟と私だけで、それほど長い髪の持ち主はいなかった。

が、心当たりはあった。当時コスチューム・プレイに熱中していて幾つかウィッグを持っていたのだが、そのうちの一つが長い黒髪だったのだ。ついでながら、ウィッグを被るのに手間がかからないようにというのも髪を伸ばさなかった理由の一つだった。

しかし当時の私は何となく男親に趣味を知られるのが気恥ずかしく、弟が彼女でも連れてきたのではないかと言って白を切った。

弟はもちろんそんな事実はないと言い、それなら念のためだからと、父はその日のうちに近所の神社に連絡をして神主を家に招き、お祓いをしてもらったのだった。

私や弟がテレビの心霊番組をきゃあきゃあ言いながら見るのを横で呆れた顔で見ていた父がそんなことをするのを意外に思ったことをよく覚えている。

父はうーんと一つ唸ると、
「盆休みって神社は忙しいのかな」
と独り言のようにボソリと呟き、玄関に置かれた電話へ歩いて行く。
「あの、お父さん」
とその背中を呼び止め、
「その髪の毛には本当に心当たりはないのだけれど……」
と前置きしてから、以前の髪の毛については自分のコスプレ用ウィッグだったかもしれないと、今更ながら白状する。
「ああ、そりゃ、たまに風呂場やらに落ちてたから知っとる。ナイロンとかの安物だったろう」
と父が苦笑する。当時からバレていたのかと今更ながら赤面しつつ、
「ならどうして、わざわざ神主さんを呼んだりしたの?」
と尋ねると、
「そりゃ、この髪も、前の髪も、本物の人間の髪だからさ」
と当たり前のように言って、父は受話器を持ち上げた。

そんな夢を見た。